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広開土王(もしくは好太王)は、諱を談徳といい、故国壌王の子である。
生まれながら勇敢で偉人の風格があり、崇高な志を持っていた。
故国壌王の3年(386年)に皇太子となり、9年(386年)に王が薨去したので即位した。

元年(392年)秋7月、南の百済を征伐して、10城を落とした。

元年(392年)秋9月、北の契丹を征伐した。
このとき、男女500を捕虜としたが、捕虜の呼びかけで10000人が高句麗に来た。

元年(392年)冬10月、百済の関彌城を陥落させた。
関彌城は四方を海に囲まれていたが、王は7方向から攻撃し、20日で落城させた。

2年(393年)秋8月、百済が我が国の南境を侵したので、王は将軍に命じてこれを防いだ。
王は都の平壌に九つの寺院を建立した。

3年(394年)秋7月、百済が侵攻してきたので、王は精騎5000を率いて迎え撃って破った。
残りの兵もその日の夜に逃げた。

3年(394年)秋8月、国の南部に7つの城を築いて、百済の侵入に備えた。

4年(395年)秋8月、王は、百済とバイ(サンズイに貝)水(北朝鮮の礼成江)の畔で戦って大勝利を収め、8000あまりの捕虜を得た。

9年(400年)春正月、後燕に朝貢した。

9年(400年)春2月、後燕王の慕容盛は、高句麗王の礼がおろそかだとして、30000の兵を率いて攻撃した。
驃騎大将軍の慕容熙を先鋒として、新城と南蘇の700里あまりの地を奪い、5000戸の住民を連行した。

11年(402年)、王は兵を派遣して後燕の宿軍を攻撃した。
後燕の平州刺史の慕容帰は城を棄てて逃亡した。

著者注:404年、倭軍が高句麗軍と戦う。

13年(404年)冬11月、出兵して後燕に侵入した。

14年(405年)春正月、後燕王の慕容熙が来寇して遼東城を攻めた。
まさに落城しようとしたとき、慕容熙は将兵たちに先に入城しないよう命じた。
その理由は、城が平定された後で王と皇后が輿に乗って入城するためであった。
そんなことをしている間に、遼東城が軍備を厳重に整えたため、後燕軍は城を落とすことができずに引き上げた。

15年(406年)冬12月、後燕王の慕容熙が契丹を襲った。
陘北(中国山西省)に至ったところで、契丹軍の多さに恐れをなし、軍事物資を棄てて帰還した。
その後、軽装備になった後燕軍が高句麗を襲撃した。
しかし、3000里あまり行軍していたため、兵士も軍馬も疲弊していて、凍死する者が道に連なる状態だった。
我が国の木底城(中国遼寧省撫順市)を攻撃したが、勝てずに帰って行った。

16年(407年)春2月、宮殿を修造した。

17年(408年)春3月、王は北燕に遣使し、北燕王の慕容雲が同族であることを述べた。
北燕王の慕容雲は、侍御史の李抜を返礼使として派遣した。
慕容雲の祖父の高和は、高句麗の分家にあたり、自ら高陽氏の末裔と称し、高を氏としていた。
北燕王の慕容宝は高雲を皇太子とした。
高雲は武芸に優れ、当時皇太子だった慕容宝に仕えた。
この後、慕容宝は高雲を養子にして慕容の姓を与えた。

18年(409年)夏4月、王子の巨連を皇太子とした。

18年(409年)秋7月、国の東部に禿山城など6城を築き、平壌の住民を移住させた。

18年(409年)秋8月、王は南方に行幸した。

著者注:413年、倭が東晋に朝貢する。

22年(413年)冬10月、王が薨去した。
諡号を広開土王とした。

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コメント
この記事へのコメント
はじめまして。わかりやすいページで助かっています。私は好太王が応神天皇だと思っています。で、神功皇后は故国原王の王妃だと思うのです。王妃は誰かしりませんか?
しかし、そうすると仲哀天皇が故国譲王、竹内宿ねは前燕のだれかな?
2008/06/04(水) 12:58 | URL | マヨ #91CvM.Pg[ 編集]
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