実際に見聞きしたことを中心に韓国のウンチク情報を紹介しています。妻が韓国人ならではのディープなネタもあります。


故国壌王は、諱を伊連(もしくは於只支)といい、小獣林王の弟である。
小獣林王が在位14年で薨去したが、跡継ぎがおらず伊連が即位した。

2年(385年)夏6月、王は40000の兵で遼東郡を攻撃した。
後燕王の慕容垂は、帯方王の慕容佐に命じて王都の龍城を守らせていた。
慕容佐は高句麗が遼東郡を攻撃したと聞き、司馬郝景を派遣して救援させたが、高句麗軍はこれを撃破した。
ついに高句麗軍は遼東郡と玄莵郡を陥落させ、男女10000を捕虜にして帰還した。
2年(385年)冬11月、後燕王の慕容農(慕容垂の第3子)が兵を率いて侵入し、遼東郡と玄莵郡を奪い返した。
これまでに、幽州(中国河北省)と冀州(中国山西省)の民がたくさん濃高句麗に流れてきていた。
慕容農は范陽(中国河北省)の龐淵を遼東太守に任命し、流民を慰撫して帰らせた。

3年(386年)春正月、王子の談徳を皇太子とした。

3年(386年)秋8月、王は兵を徴発して、南の百済を征伐した。

6年(389年)秋9月、百済が侵入し、南辺の部落を略奪して帰った。

7年(340年)秋9月、百済王は、達卒(百済の官位名)の真嘉謨に都押城(黄海道)を攻略させ、200人を捕虜にして連れ帰った。

9年(342年)春、王は新羅に使者を出して修好を求めた。
新羅王は甥の実聖を人質として派遣してきた。

9年(342年)春3月、教書を発布して、仏教を崇拝して幸福を求めることにした。
各地の役所に命じて、地方神を祭る廟を建立させ、先祖を祭る宗廟を修造させた。

9年(342年)夏5月、王が薨去した。
故国壌に埋葬し、諡号を故国壌王とした。

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