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故国原王(もしくは国岡上王)は、諱を斯由(もしくは 砲箸いΑ
美川王15年(314年)に皇太子となり、32年(331年)春、王が薨去して即位した。

2年(332年)春2月、王は卒本へ行幸して始祖廟を祭った。
このとき、老人や病人を慰問し、食糧や衣服を分け与えた。
2年(332年)春3月、王は卒本から戻った。

4年(334年)秋8月、平壌城を拡張した。

5年(335年)春正月、北部地域に新城(中国遼寧省撫順市)を築城した。

9年(339年)、前燕(五胡十六国のひとつ。中国遼寧省にあった)の始祖である慕容皝が侵攻し、新城へ迫った。
王が同盟を求めたので、前燕軍は引き上げていった。

10年(340年)、前燕に朝貢し、王の世継ぎが慕容皝に謁見した。

12年(342年)春2月、丸都城を修復し、国内城を築いた。
12年(342年)秋8月、丸都城に遷都した。

12年(342年)冬10月、前燕が龍城(中国遼寧省朝陽市)に遷都した。
建威将軍の慕容翰(慕容皝の実兄)が、まず高句麗を取り、次に宇文部を滅ぼし、その後に中原(中国河南省一帯)に進出することを願った。
高句麗への道はふたつあり、北道は平坦で広く、南道は険しくて狭かった。
そのため、多くの者が北からの進攻を希望した。
しかし、慕容翰は言った。
「敵は常識的に考え、大軍は北道から来ると判断し、北の守備を厚く、南の守備を薄くするでしょう。
王(慕容皝)は精鋭を率いて南道から攻撃して不意をついてください。
北道は無視してもかまいませんが、別働隊を出しておきましょう。
もしうまくいかなくても、敵の主力部隊は壊滅していますから、枝葉の部隊では何もできません」
慕容皝はこれに従った。

12年(342年)冬11月、慕容皝は精鋭40000を率いて南道を進んだ。
慕容翰と慕容覇が先鋒となり、長史の王㝢等は15000の兵を率いて北道から侵入した。
王は、王弟の武に精鋭50000の兵を与えて北道を守らせた。
そして、自らは弱兵を率いて南道で備えた。
慕容翰等の先鋒軍が戦闘の口火を切り、慕容皝の主力軍がこれに続いた。
高句麗軍は大敗し、左長史の韓寿が我が国の将軍である阿仏和度加を斬った。
前燕の諸軍は勝ちに乗じて丸都に入城した。
王は単騎で断熊谷(地名)へ逃げ込んだ。
将軍の慕輿埿は追撃して、王母の周氏と皇后を捕らえて帰還した。
王㝢たちは北道で戦ったが、負けて殺されてしまった。
そのため、慕容皝は北道へ逃れた高句麗軍を追わなかった。
慕容皝は使者を出して高句麗王を招いたが、王は出向かなかった。
龍城へ帰還しようとする慕容皝に韓寿が言った。
「高句麗の地は容易に守れるところではありませぬ。
いまは王も民も四散して山や谷に潜伏しておりますが、我が軍が去れば鳩のようにまた集まるに決まっております。
再び集まった敵軍は、我が国を煩わせること必定。
父王の遺骸を掘り出し、皇太后を捕え、とともに連れ帰ってくださいませ。
高句麗王が身をつつしんで帰順してきたときに帰せばよろしいでしょう。
恩義と信頼をもって手なずけることが上策かと存じます」
慕容皝は韓寿の意見に従った。
美川王の墓をあばいて遺骸を車に乗せ、国倉に収められていた先祖代々の宝物を没収し、男女50000を捕虜にし、宮殿を焼いて丸都城を破壊してから龍城に帰還した。

13年(343年)春2月、王は王弟を前燕に派遣した。
王弟は臣下と称して朝貢し、1000にも上る珍奇な宝物を献上した。
慕容皝は美川王の遺骸は返したが、皇太后は人質としてそのまま留め置いた。

13年(343年)秋7月、平壌の東にある黄城に遷都した。
東晋に遣使して朝貢した。

15年(345年)冬10月、慕容皝は息子の慕容恪に命じて我が国を攻撃させた。
慕容恪は南蘇(中国遼寧省撫順市)を攻略し、ここに駐屯軍を置いて引き上げた。

19年(349年)、王は、捕虜となっていた前東夷護軍の宋晃を前燕に送り届けた。
前燕王の慕容雋は宋晃を許し、名を活と改めさせ、中尉に任命した。

25年(355)春正月、王子の丘夫を立てて皇太子とした。

25年(355)冬12月、王は前燕に使者を派遣し、人質と貢物を差し出して皇太后の帰還を願い出た。
前燕王の慕容雋はこれを許し、殿中将軍の刀龕に王母周氏を送り届けさせ、王を征東大将軍営州刺史に任命し、楽浪公王に封じ、王号は従来どおりとした。

著者注:369年、倭が百済と国交を結び、朝鮮半島に出兵する。


39年(369年)秋9月、王は20000の兵で南の百済を討とうとし、雉壌で戦ったが敗れる結果となった。

40年(370年)、前秦の王猛が前燕を滅ぼした。
前燕の太傅の慕容評が逃げて来たが、王は前秦に送った。

41年(371年)冬10月、百済王が30000の兵を率いて平壌城を攻撃した。
王は自ら率いて防戦したが、流れ矢があたって23日に薨去した。
王は故国の野原に埋葬された。

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