西川王(もしくは西壌王)は、諱を薬慮(もしくは若友)といい、中川王の第二子である。
聡明で思いやりがあり、民は王を敬愛してやまなかった。
中川王の8年(255年)に皇太子となり、23年(270年)冬10月に王が薨去したので、皇太子が即位した。
2年(271年)春正月、西部の大使者の于漱の娘を皇后にした。
2年(271年)秋7月、国相の陰友が逝去した。
2年(271年)秋9月、尚婁を国相に任命した。
尚婁は陰友の子である。
著者注:280年、西晋が中国を統一する。
11年(280年)冬10月、粛慎が侵入して、辺境の民を殺したので、王は群臣に言った。
「朕は小さな体躯で、国の大元となる王になった。
朕の徳では、国を安寧にすることができぬ。
朕の威厳では、内外を威圧することができぬ。
隣敵の粛慎は、狡猾にも我が国の辺境を侵した。
計略に優れた大臣と勇猛果敢な将軍に、他国との折衝を任せたい。
奇抜で優れた計略を考え出す者と、戦場での指揮能力に秀でた武人を推挙せよ」
群臣は口を揃えて言った。
「王弟の達賈様は、勇敢で知略があり、大将に最適のお方でございます」
そこで、王は達賈を派遣して、粛慎を討たせた。
達賈は、奇策を用いて敵の隙を突いた。
檀慮城を落城させ、そこの酋長を殺した。
夫餘(中国吉林省白城市)の南にある烏川(松花江流域)に600戸あまりを遷し、投降してきた6、7の部落はそのまま高句麗の郡県に組み込まれた。
大喜びした王は、達賈を安国君とし、知内外兵馬事の爵位を授け、梁貊と粛慎の諸部落を治めさせた。
17年(286年)春2月、王弟の逸友と素勃が謀反を企てた。
病気と偽って湯治に行き、腹心の家来たちと無節操に楽しんだあと、反逆の方策を議論した。
王はふたりを呼び出すため、『国相に任命するからすぐ出仕せよ』と嘘をついた。
王は近衛兵に命じ、現れたふたりを捕まえて誅殺させた。
23年(292年)、王が薨去した。
西川の野原に埋葬され、諡号を西川王とした。

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