実際に見聞きしたことを中心に韓国のウンチク情報を紹介しています。妻が韓国人ならではのディープなネタもあります。


故国川王(もしくは故国襄王)は諱を男武(もしくは伊夷謨)といい、新大王伯固の第2子である。
伯固が崩御すると、家臣たちは長男の抜奇を不肖者として退け、次男の男武を共立した。
王は背丈が九尺あり、容姿は英傑そのもので、鼎を軽々と持ち上げるほど力があった。
揉め事は、聴いて即断した。
優しいことも厳しいこともあったが、すべて的を得た裁きだった。

2年(180年)春2月、掾那部の于素の娘である于氏を皇后とした。
2年(180年)秋9月、王は卒本に行幸し、始祖廟を祭った。

著者注:184年、黄巾の乱が起こり、後漢王朝は崩壊に向かっていく。

6年(184年)、後漢の遼東太守が高句麗に攻め込んできた。
王は、王子の罽須を派遣して守りにあたらせたが、防ぎきることができなかった。
王は騎馬の精兵を率いて親征し、坐原で後漢軍と戦い、これを討ち破った。
斬った漢人の首が山積みにされた。

著者注:189年、この頃、倭国で卑弥呼が女王の座についた。

12年(190年)、秋9月、都に雪が六尺も積もった。
中畏大夫で沛者の於畀留と評者の左可慮は、皇后の外戚として国権を欲しいままにした。
その子弟も権力をかさにきて驕り高ぶり、他家の子女を略奪したり、農地や屋敷を奪い取ったりしたため、民は憤り恨んでいた。
これを聞いた王は誅殺しようとしたが、左可慮たちが四掾那(掾那部内の有力4部族)とともに反乱を起こした。

著者注:190年頃から三国時代に入る。

13年(191年)夏4月、左可慮たちは兵を集めて王都を攻めた。
王は畿内の兵馬を集め、反乱軍を平定した。
ついに王令が発布された。
『近頃、官位の昇給は情実によってなされ、人徳によっていない。
民に甚大な影響を与え、王家すら動揺する始末だ。
これはすべて朕の不徳の致すところである。
四部(掾那部以外の高句麗五族)は、在野で賢良な人物を捜して推挙せよ』
四部の者たちはみな、順奴部の晏留を推してきた。
王は晏留を召し出して国政をまかせようとした。
晏留は言った。
「臣下の端くれに過ぎない私は凡庸愚鈍で、国政に参加するような能力は、もとより持ち合わせておりません。
しかし、西鴨緑谷の左勿村にいる乙巴素は、瑠璃明王の大臣を勤めた乙素の孫でございます。
剛毅で知恵があり思慮深い男でございますが、世に認められず畑を耕して日々を送っております。
大王が国をうまく治めようとされるなら、この者がうってつけでございます」
王は使者を出して、辞を低くし丁重な礼をもって乙巴素を迎えた。
王は乙巴素を中畏大夫に任命し、于台の爵位を与えた。
王が言った。
「いま先王の偉業を引き継いで民の上に立っておりますが、徳が薄く才が足りないため、いまだにうまく国を治めることができません。
先生は偉才を隠し草深い村でひっそりと暮らしておられたが、その生活を棄てて都へお越しいただけることになりました。
これは私のためだけではなく、高句麗と国民にとって大変喜ばしいことです。
先生のお教えをたまわりたいのです。
心を尽くして国のために働いていただけないでしょうか」
乙巴素は国のために尽くしたいと思ったが、与えられた職階では権限が十分でなく国を治めるのは困難だと判断した。
そこで、答えて言った。
「愚臣は力量不足で、大王の厳命を遂行するのは難しいかと思います。
大王にあられましては、より賢良なる者をお選びになられ、その者に高職を授けて大業を成し遂げていただきたく存じます」
王は乙巴素の意思を知り、国相に任命して国事にあたらせることにした。
大臣や外戚たちは、乙巴素が新しい国相になったことが気に入らず、さまざまな嫌がらせをした。
そのため王は家臣たちにこう命じた。
「身分の貴賎にかかわらず、国相に従わぬ者は罰する」
乙巴素は王宮を退出し、知人に言った。
「時勢に合わなければ隠棲し、時勢が合えば国に仕えるのが、士としての常道です。
反対勢力が強く時勢に合っていないのは確かですが、いま大王は厚意をもって遇してくださっています。
それなのに、以前のような隠遁生活に戻ってもよいものでしょうか」
悩んだ末、乙巴素は誠心誠意国に仕えることに決めた。
乙巴素は国の方針を明らかにし、賞罰を慎重に行ったので、民はみな安心し、王都の内外で問題が起こることもなかった。

13年(191年)冬10月、王は晏留に言った。
「そなたの一言がなければ、巴素に出会って国政をともに担うことはなかった。
いま業績が上がっているのは、そちの功績によるものじゃ」
王は晏留に大使者の爵位を授けた。

16年冬10月、王は質陽で田猟を行った。
王は道に座って泣いている者を見つけ、どうして泣いているのか尋ねた。
その者は答えた。
「家が貧しく小作人をして母を養っておりますが、今年は不作で手伝う畑がなく、糊口をしのぐ食糧さえ得られない始末です。
そのため泣いておるのでございます」
王が言った。
「朕は民の父母でありながら、民をこのような目に遭わせている。
コレは朕の罪である」
王はすぐに衣食を支給して民を慰めた。
内外の役所に命じ、寡婦、孤児、独り者、老人、病人、貧乏人で自活できない者を救済させた。
また、役人に命じ、毎年3月から7月まで国庫の穀物を家族数に応じて貸し与えて10月に返納させるようにした。
以後毎年施行されたので、都の民も外地の民もみな大喜びした。

19年(197年)、中国に大乱が起こり、戦乱を避けて高句麗に投降してくる漢人がとても多くなった。
この年は後漢の献帝建安2年にあたる。

19年(197年)夏5月、王が薨去した。
故国川に埋葬し、諡号を故国川王とした。

後漢の献帝の建安年間(196〜220年)の初め、兄であるにもかかわらず即位できなかったことを恨んでいた抜奇は、消奴部の加と3万人あまりを率いて、遼東の地を支配していた公孫康に投降した。
このあと、抜奇たちは沸流水の上流に戻って暮らした。

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