実際に見聞きしたことを中心に韓国のウンチク情報を紹介しています。妻が韓国人ならではのディープなネタもあります。


新大王は諱を伯固(もしくは伯句)といい、大祖大王の末弟にあたる。
見目麗しく英明で、思いやりがあって憐れみ深い性格であった。
先王の次大王は傍若無人で我が儘だったので、臣民は親しみを感じることができず、禍や乱を恐れた。
伯固は害が自分に及ぶのを恐れ、山谷に逃げて身を隠した。
次大王が虐殺されると、左大臣の菸支留は群臣と会議を開き、伯固を後継者に決め、迎えの使者を派遣した。
伯固が王宮に到着すると、菸支留はひざまずき、国政に必要な王の印綬を差し出して言った。
「先君(次大王)は不幸にも崩御されました。
王子様たちはご存命ですが、国政を委ねるほどの力量はおありにならないようでございます。
国政が仁に戻ることを、民は待ち望んでおります。
謹んでお願い申し上げます。
玉座に就いて人臣をご教導ください」
伯固は、諸葛孔明のように(三顧の礼)三度辞退してから即位した。
このとき、77歳であった。

2年(166年)春正月、王は次のような恩赦令を発布した。
『朕は王族として産まれたが、そもそも君主としての徳がない。
先王が親族を迫害するに及んで不安を覚え、人里離れた遠方へ逃げた。
先の大王が臣下に殺されるという凶訃を伝え聞き、深い悲しみに包まれていた。
そんなときに民や群臣がすすんで推戴してくれるとは望外の喜びであった。
無能にもかかわらず崇高な地位に就いたため、まだ安寧な気持ちになれず、深い淵か海を渡っているような気分である。
遠方にまで恩恵を施し、民とともに新たな国造りに邁進するため、国中に大赦を行う』

恩赦令の発布を聞いた国民はみな「新大王の徳はなんと大きいのだろう」と言って大喜びした。

次大王の皇太子だった鄒安は、明臨答夫事件で逃亡したままになっていたが、新大王の大赦を聞いて舞い戻り、王宮の門前で言った。
「国に難が降りかかったとき、死ぬこともできず逃げてしまいました。
いま王による新政が始まったと聞き、自らの罪を懺悔しに戻ってまいりました。
もし大王が法に則り市場で処刑するようお命じになられても、愚臣はご命令に従う所存でございます。
ご助命いただき遠方に流罪としていただけますならば、死体に骨や肉をつけて蘇らせるほどの喜びでございます。
しかし、いくら望んでも叶うような願いでないこと、重々承知いたしております」
王は鄒安に句山瀬(地名)と婁豆谷(地名)を与え、譲国君に封じた。
また、明臨答夫を国相(総理大臣)に任命して国政と軍事を兼務させ、梁沛者の爵位と梁貊(渾江西岸部)の領地を与えた。
このとき、左大臣(左輔)と右大臣(右輔)は国相に統合された。

3年(167年)秋9月、王は旧都の卒本に行幸し、始祖廟を祭った。
3年(167年)冬10月、王が卒本から戻った。

4年(168年)、玄莵郡太守の耿臨が侵入し、高句麗兵数百名を殺害した。
王はすすんで投降し、玄莵郡に属することを願い出た。

5年(169年)、王は、大加の優居や主簿の然人等に兵を率いさせて玄莵郡太守の公孫度を助け、富山(地名)の反乱軍を討伐した。

8年(172年)冬11月、後漢が高句麗へ大軍を送った。
攻めるべきか守るべきか、王は群臣に諮問した。
家臣たちは議論の末、答えて言った。
「漢兵は大群を頼みにして我が軍をなめております。
もし出撃しなければ、漢軍は我が軍を臆病だと見なし、何度でも攻めて来ることでありましょう。
我が国は山々が峻険で道が狭いため、関を一兵卒で守っていても、万兵で攻めることはできません。
漢兵がいくら多いといっても、何か方策があるはずでございます。
出陣して国をお守りくださいますようお願い申し上げます」
これを聞いた明臨答夫は言った。
「そうではございませぬ。
大国の漢は多くの民を抱えております。
その漢の強兵がはるばる遠征して来て、我が兵と一戦交えようとしております。
正面からぶつかって、とうてい勝てるものではございませぬ。
兵多なれば急襲、兵少なれば墨守。
これが兵法の常道でございます。
いま漢軍は千里のかなたから兵糧を運び入れており、持久戦に耐えられるような状態ではございません。
堀を深くし、その土で土塁を高く積み上げ、城の周りを焼き払って見通しをよくした上で漢軍を迎え討てば、10日もしないうちに飢えに苦しんで撤退することでありましょう。
そして、漢軍が退却を始めたときに精兵で追撃すれば、我が軍の勝利に終わることでしょう」
王は明臨答夫の策を進めることにした。
高句麗軍は、籠城して固く守った。
後漢軍は城を攻めたてたが、城門を破ることはできなかった。
果たして、後漢兵は飢餓に陥り、引き上げて行った。
明臨答夫は数千の騎兵を率いて追走し、坐原(地名)で戦った。
後漢軍は大敗し、一匹の馬も帰ることができなかった。
王は大いに喜び、坐原と質山を明臨答夫に与えた。

12年(176年)春正月、群臣が王に皇太子を立てるよう請願した。
12年(176年)春3月、王は、王子の男武を皇太子とした。

15年(179年)秋9月、国相の明臨答夫が113歳で死去した。
王は自ら弔問に訪れて慟哭した。
悲しみのあまり7日間政務を執らなかった。
礼葬を行って質山に埋葬し、20戸の墓守を置いた。

15年(179年)冬12月、王が薨去した。
故国谷(地名)に埋葬され、諡号を新大王とした。

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