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大祖大王(国祖王とも呼ばれる)の諱は宮で、幼名を於漱といった。
古鄒加(10等中第6の官位)再思は、第2代瑠璃明王の子であったが、その再思の子が大祖大王である。
母は夫餘人であった。
慕本王の崩御後、無能な皇太子には国政を任せられないとの声が上がり、家臣団が協議して宮を高句麗王に推挙した。
大祖大王は産まれたときに目が見え、幼い頃からあらゆる面に秀でていた。
しかし、7歳で即位したため、実母が摂政となった。

3年(55年)春2月、後漢の遼西郡(中国河北省北部)に10の城を築き、後漢軍の侵攻に備えた。

4年(56年)秋7月、東沃祖を攻めて高句麗の領土とした。
これにより、東境は滄海(日本海)、南境は薩水になった。

著者注:西暦57年、倭の奴国が後漢に朝貢し、光武帝から金印(志賀島から出土したもの)を下賜された。

16年(68年)秋8月、曷思王の孫の都頭が国ごと投降してきたので、王は都頭に于台(10等中第6の官位)を与えた。

20年(72年)春2月、王命により、貫那部(高句麗五族のひとつ)出身の沛者(10等中第3の官位)達賈が藻那国(場所は不明)を攻めて、藻那国王を捕虜にした。

22年(74年)春2月、王命により、桓那部(高句麗五族に準ずる部族)出身の沛者(10等中第3の官位)薛儒が朱那国(場所は不明)を攻めて、王子の乙音を捕虜にし、乙音に古鄒加を授けた。

25年(77年)冬10月、夫餘国の使者が、三本角の鹿と尾の長い兎を、贈り物として持ってきた。
王は瑞祥物だと言って喜び、大赦を行った。

46年(98年)春3月、王は東の柵城(中国吉林省琿春市)地方を行幸し、柵城の西にある罽山(地名)で白鹿を捕らえた。
柵城に着いた王は、群臣と宴会を開いて労をねぎらい、柵城の守護職たちにも、身分に応じて褒美を与えた。
そして、東巡の功績を岸壁に刻んで貴国の途についた。
46年(98年)冬10月、王は柵城から帰国した。

50年(102年)秋8月、遣使して、柵城を安撫した。

53年(103年)春正月、夫餘国の使者が訪れ、虎を献上した。
1丈2尺もある大虎で、明るく輝かんばかりの毛並みだったが、尻尾がなかった。
王は将軍を派遣して遼東郡の6県を奪おうとしたが、遼東太守のコウ(耳+火)夔が出兵して防いだので、高句麗軍は大敗した。

著者注:西暦107年、倭国王の帥升らが後漢の安帝に奴隷160人を献上した。

57年(109年)春正月、王は後漢に遣使し、安帝の元服を祝賀した。

59年(111年)春3月、王は後漢に遣使して特産物を献上し、玄莵郡への帰属を求めた。

62年(114年)秋8月、王は南海地方(清川江一帯)を行幸した。
62年(114年)冬10月、王は南海地方から帰った。

66年(118年)夏6月、王は穢貊とともに玄莵郡を襲い、華麗城を攻撃した。
66年(118年)秋8月、王は地方官に命じて賢良な人や孝順な人を推薦させ、自活できない独り者や老人に衣服や食糧を支給した。

69年(121年)春、後漢の幽州(中国河北省北部、遼寧省、吉林省南部、北朝鮮北西部)刺史(長官)の馮煥、玄莵郡太守の姚光、遼東郡太守の蔡諷たちは、兵を率いて襲撃し、穢貊国の兵馬財物をことごとく接収した。
大祖大王は、弟の遂成を派遣して2000余りの兵で後漢軍を迎えたが、遂成は正攻法では勝てないと考えた。
偽って投降したところ、馮煥たちがこれを信じたので、大軍を留めることに成功した。
この隙をついて、王は3000の兵を密かに派遣して玄莵郡と遼東郡を急襲させ、城を焼き、2000余人を殺害、もしくは捕虜とした。

69年(121年)夏4月、鮮卑族8000人の協力を得て、遼隊県(中国遼寧省鞍山市)を攻撃した。
遼東郡太守の蔡諷は、新昌県(中国遼寧省鞍山市)へ出兵したが、陣没してしまった。
軍人の龍端と公孫酺は、身を挺して蔡諷を守ったがともに殺されてしまった。
このときの使者は百余名であった。

69年(121年)冬10月、王は夫餘に行幸し、大后の廟を祭った。
困窮している庶民を慰問し、生活状態に応じて施しを与えた。
粛慎(中国吉林省以北にいたツングース系民族)の使者が訪れ、紫色をした狐の毛皮、白鷹、白馬を献上した。
王は、宴席を設けて労をねぎらってから、使者を帰した。
69年(121年)冬11月、王が都に帰還した。
王は、弟の遂成に軍事と国事を統括させた。
69年(121年)冬12月、王は、馬韓と穢貊の1万騎を率い、玄莵郡城を包囲した。
夫餘王は王子の尉仇台を派遣した。
2000の兵を率いて後漢軍とともに城を守ったため、高句麗軍は大敗してしまった。

70年(122年)、王は、馬韓、穢貊といっしょに遼東郡に侵入したが、夫餘王が派兵して遼東郡を助けたため、高句麗軍はまたしても敗れた。

71年(123年)冬10月、王は、沛者の穆度婁を左大臣に昇格させ、王族の高福章を右大臣に任命して、遂成とともに政に加わるよう命じた。

72年(124年)冬10月、王は、後漢に朝貢使を派遣した。

80年(132年)秋7月、遂成は、倭山(地名)で田猟し、近臣たちと宴会を開いた。
貫那部の于台の弥儒、桓那部の于台の菸支留、沸流那部の軌瓠10等中第9の官位)の陽神たちが、遂成に向かってこっそり言った。
「慕本王が崩御されたとき、群臣は不詳の皇太子が即位するのを嫌い、再思王子の即位を望まれました。
しかし、再思様は老齢を理由に、王位を息子の大王にお譲りになられました。
老いた王は子弟に譲位しなければならないとお考えになったからです。
いま大王はすでにご高齢ですが、譲位される意思は見られません。
ですから、私たちはこのことを憂慮しているのでございます」
これに対し、遂成はこう答えた。
「王位を継ぐ者が嫡男であるのは、世の常道である。
大王はご高齢であるが、立派な嫡男がいらっしゃる。
どうして私が取って替わることができよう」
弥儒が言った。
「弟が賢者で兄から王位を継いだ例は、古にもございます。
遂成様におかれましては、お疑いなさいませぬようお願い申し上げます」
これを伝え聞いた穆度婁は、遂成に異心ありと見た。
一緒に政務を執っては連座させられるかもしれないと考え、病気を理由に出仕しなくなった。

86年(138年)春3月、遂成は質陽(地名)で田猟し、7日たっても戻らず無節操に楽しんだ。
86年(138年)秋7月、遂成は箕丘(地名)で田猟し、5日たってやっと帰ってきた。
弟の伯固が諫めて言った。
「禍福に門はあく、それは人が自ら招き寄せるものです。
今あなたは王弟で百官の長となり、臣下としてこれ以上の地位はありません。
その功績も、他者と比べようもありません。
ですから、忠義の心を持ち、譲る礼儀をわきまえ、王徳に従い、庶民の心を得れば、富はあなたから離れることはなく、禍根や叛乱は起こり得ないでしょう。
しかし、今のあなたは、快楽を貪り求め憂慮することを忘れています。
ご自分の足元が危ういのがわからないのですか」
遂成は、
「凡人は富と歓楽を求めるものだ。
ただ、万人に一人しか、そんな幸運に恵まれないだけだ。
その運が私に巡ってきているのに、まだそれを使いこなすことができない。
だから、その運を使おうとしているのだ」
と言い、伯固の意見を退けた。

90年(142年)秋9月、都の丸都城に地震が起こった。
王は、豹が虎の尻尾を噛み切る夢を見た。
目覚めてから、その吉凶を占わせた。
巫女が言った。
「虎は百獣の長で、豹は同類ですが小物です。
夢の語るところによりますと、王族の中に王統を絶とうとする者がいるようでございます」
王はこれを不快に思い、右大臣の高福章に言った。
「朕が見た夢について巫女がこのように告げたのだが、どうしたらよいものだろうか」
高福章は答えた。
「善行を積まなければ、たとえ夢占いで吉と出ても凶になりますし、善行を積めば、夢占いで災いと出ても福となります。
いま大王は、国を憂うること我が家の如く、民を愛することわが子の如くでございます。
些細な事件はあるかもしれませぬが、大王を傷つけるような「大事件は起こるはずがございません」

94年(146年)秋7月、遂成は倭山の麓で田猟し、近臣の者たちに言った。
「大王は老いても亡くなる気配がない。
わたしの人生はそろそろ終わろうとしている。
これ以上待つことはできない。
おまえたちが私の計略に参加してくれるのを願うばかりである」
側に仕える者たちは声を揃えて「仰せのままに」と返事をした。
すると、ひとりが進み出て言った。
「王子様が不祥の言葉を吐いておられるのに、左右の者は誰も諫めることができず、つき従うばかり。
このような者を媚びへつらう姦臣というのです。
はっきりお聞きしますが、遂成様の真意をお聞かせ願いたい」
遂成は言った。
「そなたの直言は薬になる鉱石のようであるが、いったい何を疑っているのか」
その家臣は答えて言った。
「いま大王が賢人であることを疑う者は誰一人おりません。
王子様は大功があるといっても、媚びへつらう姦臣たちを引き連れて、大王を廃そうとしていることは明らかでございます。
こんなことは、ただ1本の糸で万斤の重さを支えて引き倒すのと何の違いがありましょうか。
それが無理なことは、どんな馬鹿者でも知っている道理でございます。
もし王子様が悔い改めて恭順の意を表せば、大王は王子様の善なることをよくご存知なわけですから、王子様に禅譲するお心が必ずおありになります。
悔い改めなければ、災いが及ぶこと必定です」
遂成はこの直言を不快に思った。
左右の者たちは直言を妬み、遂成に讒言した。
「王子様は、大王が年老いたことで我が国が危うなることを心配され、後々の方策を立てておられるだけでございます。
こやつの妄言が漏洩することだけが気がかりです。
禍根とならぬよう、殺して口を塞いでしまうのが良策かと存じます」
遂成は近臣の意見を聞き入れた。

94年(146年)秋8月、王は将軍を派遣して、遼東郡の西安平県(中国遼寧省丹東市)を襲撃し、帯方(北朝鮮黄海道)県令を殺害し、楽浪郡太守の妻子を略奪した。
94年(146年)冬10月、右大臣の高福章が王に言った。
「遂成が謀反を起こそうとしています。
その前に遂成を誅殺すべきです」
王は言った。
「朕は年老いた。
遂成の我が国に対する功績は甚大である。
だから、王位を遂成に譲ろうと思う。
そなたが悩む必要はない」
高福章は言った。
「遂成様の人に対する行いは、残忍で思いやりがありません。
今日譲位を受ければ、明日には大王の子孫を殺し始めるでしょう。
大王は、ただ不仁の弟に恩恵を施そうとしているだけで、無辜の子孫に害が及ぼうとしているのをご存知ではありません。
この件につきましては、どうか熟慮いただけますようお願い申し上げます」
94年(146年)冬12月、王は遂成に
「朕は年老いてすべてのことに飽きてしまった。
天の暦もそなたが王位を継ぐ時期だと言っている。
内では国政に参画し、外では軍事を担い、長らく高句麗のために尽くしてくれた。
人民の望みを託し禅譲できるのは、そち以外におらぬ。
そなたが継いでくれれば、朕は永遠に休むことができる」
と言って禅譲し、離宮に隠居した。
この王の諡号を、大祖大王とした。

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