実際に見聞きしたことを中心に韓国のウンチク情報を紹介しています。妻が韓国人ならではのディープなネタもあります。


大武神王(大解朱留王)は、諱を無恤といい、第2代瑠璃明王の第3子だった。
生まれつき聡明で、成長して雄傑、国家の大計も有していた。
瑠璃明王33年、皇太子となったが、同年に瑠璃明王が薨去したため、わずか11歳で即位することになった。
母は松氏、多勿国王松譲の子女である。

2年(19年)春正月、百済の農民千余戸が移ってきた。

3年(20年)春3月、始祖東明聖王の廟を建立した。

3年(20年)秋9月、王は骨句川で田猟し、神馬を捕まえた。

3年(20年)冬10月、赤いカラスを捕まえた夫餘人が夫餘王帯素に献上したところ、
「もともと黒いはずのカラスが赤色で胴がふたつでございます。
これは我が国が高句麗を併合してひとつの国になる兆候と思われます」
と、ある家臣が進言した。
喜んだ夫餘王は、高句麗へ使者を出し、家臣の進言内容をしたためた親書とともに赤カラスを贈った。
大武神王は家臣と相談して、こう返事した。
「北方を象徴する色である黒が、南方を示す赤に変わりました。
また、赤カラスは瑞兆の表象でもあります。
そんな鳥をわざわざ手放したのですから、両国の関係はこれからどうなるかわかりません」
返書を読んだ帯素は、高句麗の意外な反応に驚き、そして悔しがった。

4年(21年)冬12月、大武神王は、夫餘を討つため出兵し、沸流水(渾江)に陣を張った。
王が川辺を見ると、少女が鼎(煮炊き用の三足器)で遊んでいた。
近寄ってみると、青銅製の大鼎だけが置かれていた。
不思議なことに、この鼎に材料を入れると、火を使わずに煮炊きできた。
兵士全員の食事を一度に作ることができた。
そのとき、男が突然現れて言った。
「その鼎は我が家の家宝だったのですが、妹が失くしてしまったのでございます。
しかし、いまは大王のもの。
その鼎を背負って従軍させていただけないでしょうか」
王は参軍を許し、負鼎の氏を授けた。
しばらくして、利勿林(地名)で宿営したところ、夜中に金物を叩く音がした。
夜明けに音の出所を探すと、金印と鉄剣が出てきた。
大武神王は「これらは天からの授かり物(青銅・金・鉄は北方騎馬民族の三種の神器)である」と宣言した。

進軍途中、顔面蒼白で目が鋭く輝いている九尺丈の男が、王の前に現れて言った。
「私は北溟(地名)の者で、怪由と申します。
大王はこれから夫餘を討伐するとうかがいました。
どうか私に夫餘王の首を切らせてください」
王は喜んで許した。
また、別の男が現れて言った。
「私は赤谷(地名)の者で、麻盧と申します。
この長矛で先導させてくださいませ」
王はまたこれを許した。

5年(22年)春2月、王の軍は夫餘の南まで進んだ。
湿地が広がっていたので、固い土地を選んで宿営した。
馬から鞍を下ろし、兵士たちはゆっくり休んだ。
それを知った夫餘王は、全軍に出撃命令を出し、高句麗軍を急襲させた。
しかし、軍馬が湿地にはまり、身動きがとれなくなってしまった。
これを見た大武神王は、怪由に指示を出した。
怪由は雄叫びを上げながら剣を振り上げて夫餘王に襲いかかった。
あまりの迫力に、王をかばう者はいなかった。
夫餘王を捕まえた怪由は、剣で王の首を斬り落とした。
王を失った夫餘軍は、くずれかけた軍勢をなんとか建て直し、高句麗軍を幾重にも包囲した。
食料が尽き兵士が飢えはじめたが、王に妙案は浮かばなかった。
そこで、王は天に祈りを捧げた。
すると、一帯が濃霧に覆われ、それが7日間続いた。
王は草人形を作らせ、それに武器を持たせて兵営の内外に立たせた。
高句麗軍は、闇夜の間道を通って撤退することに成功した。
しかし、骨句川の神馬や沸流水の大鼎を失ってしまった。
利勿林まで逃げたが、兵たちは飢えのために進めなくなってしまった。
ここで獣を捕まえて腹を満たし、なんとか帰還することができた。
先に帰国した王は群臣を集め、宗廟で帰還を神に感謝する儀式を執り行い、その場でこう言った。
「軽々しく夫餘を討とうとしたのは、朕の不徳の致すところである。
夫餘王の首をとったとはいえ、夫餘国はまだ滅んでいないし、多くの兵士と軍事物資を失ってしまった。
これは朕の過ちである」
王が戦死者をあつく弔い、自ら負傷者を慰問したため、人臣は王の徳を慕い、国に命を捧げる覚悟をした。

5年(22年)春3月、骨句川神馬が、夫餘の馬100匹を連れて車廻谷に戻ってきた。

5年(22年)夏4月、帯素の弟が曷思(地名)の川の近くで建国し、曷思王を名乗った。
この王は金蛙王の末子だが、名は伝えられていない。

5年(22年)秋7月、夫餘王の従兄弟が、
「先王は自らを滅ぼしただけでなく国も滅ぼしてしまいました。
民は依るところがありません。
弟は逃亡して曷思で国をつくってしまいました。
わたしのようは不肖者には、夫餘を復興させることも、民を養うこともできません」
と言って、万余人を引き連れて高句麗に投降してきた。
大武神王は王の称号を与え、掾那部(高句麗五部のひとつ)の所属とした。
背中に絡み紋様があったので絡という氏を与えた。

5年(22年)冬10月、怪由が病没した。
王が病床を見舞ったとき、怪由は言った。
「北溟出身で卑しい身分のわたくしをお取り立ていただいたご恩は、死んだ後も忘れません」
王はその言葉を聞いて頷いた。
王の命によって、怪由は北溟山の南に葬られ、季節ごとに祭られた。

著者注:西暦23年、王莽の新王朝が滅亡する。
     西暦25年、光武帝が即位し、後漢王朝(25〜220年)が始まる。


8年(25年)春2月、乙豆智を右大臣に任命し、国政と軍事を任せた。

9年(26年)冬10月、大武神王は、蓋馬国(鴨緑江上流域にあった小国)に親征した。
蓋馬王は殺されたが、民は奴隷にされることも私財を没収されることもなく、ただその地が高句麗の郡県に組み込まれた
9年(26年)冬12月、蓋馬国が滅ぼされたのを聞いた句茶国王は、国ごと投降してきた。
こうして王は領土を広げていった。

10年(27年)春正月、乙豆智を左大臣に昇格させ、松屋句を右大臣に任命した。

11年(28年)秋7月、後漢の遼東郡太守軍が高句麗を攻めた。
大武神王は家臣を集めて軍議を開き、野戦か籠城かを尋ねた。
松屋句が答えて言った。
「徳に頼る者は栄え、力に頼る者は滅ぶと申します。
漢は不作で収穫が減っている上、新皇帝が即位したばかりで内乱状態です。
このようなときに討って出るのは理にかないませぬ。
今回の来襲は、漢政府の命令であるはずがなく、遼東将軍が勝手に軍を動かしたものに違いありませぬ。
天に逆らうような兵が、軍功を挙げられるはずがありませぬ。
険峻な場所で墨守し、しかるのちに奇襲すれば、勝利間違いないでございます」
左大臣の乙豆智が進言した。
「『小敵の強がりは大敵の虜になる』と申します。
漢軍に比して我が軍は、あまりにも少数。
ここは計略を用いて応ずるべきで、力に頼るべきではありませぬ」
王は乙豆智に尋ねた。
「それでは、いったいどのような計略を用いるのだ」
乙豆智は答えた。
「いまの漢軍は勢いがあり、我が軍が勝てるとは思えませぬ。
城門を閉ざして籠城し、漢軍が疲弊するのを待って討って出るのがよろしいかと存じます」
王は乙豆智の意見に従った。

高句麗軍は尉那巌城に数十日間立て籠もったが、後漢軍は包囲を解かなかった。
兵が疲れて倒れそうになっているのを見た王は、乙豆智に尋ねた。
「このままでは守り通すことができそうもない。
どうすればよいか」
乙豆智は答えた。
「ここは岩山のため、漢は城内に井戸がないと考え、包囲して我が軍が疲弊するのを待っております。
池の鯉を水草で包んで美酒とともに贈り届け、漢軍をねぎらってはいかがでしょう」
王は、漢軍に書簡を送って言った。
「愚者は大漢の罪を得て、百万の御軍に囲まれております。
この地で風雨にさらされておられます御軍に厚意を示すため、つまらぬもの物ではございますが、新鮮な鯉と酒を届けさせていただきます」
贈り物を見た遼東郡の将軍は、城内に水源があって落城にはまだ時間がかかると判断した。
そして、次のような返書を高句麗王に送った。
「貴国を糾弾するため、大漢皇帝が私を派遣いたしました。
国境に至ること10日余りで、貴殿の親書を受け取りました。
拝読したところ、恭順の意を示しているようです。
皇帝にそのまま報告させていただきます」
そして、漢軍は引き上げていった。

13年(30年)秋7月、買溝谷(地名)の尚須が、弟の尉須、家来の于刀といっしょに投降してきた。

15年(32年)春3月、大臣の仇都、逸苟、焚求の官位を取り上げて平民に落とした。
3人は沸流部(高句麗五部のひとつ)の部族長だったが、卑劣なまでに強欲で、他人の妻や妾、牛馬、財貨を平気で奪い、逆らう者には鞭を使ったので、民はひどく恨んでいた。
王は3人を死刑にしようと思ったが、東明聖王以来の旧臣であったので、この程度の措置で我慢した。
王は、南部(高句麗五部のひとつ)の下級貴族だった鄒ボツ(孛+攵)素を、沸流部の部長に任命した。
鄒ボツ素は庁舎を新築し、そこで政務を執った。
仇都たち罪人を庁舎に入れなかったので、仇都等3人は外出中の鄒ボツ素の前に出て言った。
「王法を犯してしまいましたこと、慙愧の念に耐えません。以前の罪をお許しいただき、更生の機会をお与えいただけるのであれば、死んでも恨みはございません」
話を聞いた鄒ボツ素は、3人を官舎に招き入れ、いっしょに座って言った。
「人は過ちを犯すもの。
それを悔い改めるなら、それに勝る善行はありません」
鄒ボツ素は3人の友人となり、以後3人が悪行に及ぶことはなかった。
王はこの話を聞き、
「鄒ボツ素は、官位の威厳に頼らず、知恵で悪者を更生させた。
まことに有能な人物である」
と言って褒め、鄒ボツ素に大室の姓を与えた。

15年(32年)夏4月、高句麗王子の好童が沃祖(咸鏡南道にあった国)を訪れた。
楽浪国の崔理王は沃祖に行き、好童に会って言った。
「あなたは非凡な顔相を持っています。北国の神王の子ではありませんか」
崔理王は好童を連れて帰国し、娘に引き合わせた。
楽浪国には不思議な太鼓と角笛があった。
敵が来ると、ひとりでに鳴り出して急を知らせた。
高句麗に戻った好童は、崔理王の娘に密書を送って言った。
「武器庫の太鼓と角笛を壊せば、そなたを正妻として迎えよう」
好童を愛していた娘は、太鼓と角笛を刀で切り裂き、好童に知らせた。
好童は楽浪国を攻めるよう王に進言した。
高句麗軍は楽浪国へ向かった。
太鼓と角笛が鳴らないので、楽浪国は軍備を整えなかった。
高句麗は、やすやすと城下に軍を進めることができた。
崔理王は太鼓と角笛が壊されていることを知り、娘を殺した。
もはやこれまでと観念した崔理王は、城門を開いて降伏した。

15年(32年)冬11月、好童が自ら命を絶った。
好童は、曷思王の孫娘にあたる次妃から産まれた。
王は、その容姿端麗なことを愛し、好童と名付けた。
我が子が皇太子になれないことを心配した王妃は、
「好童は私への態度が不遜です。
謀反を起こそうとしているに違いありません」
と、王に讒言した。
これを聞いた王は答えた。
「そなたは他人が産んだ子だから、それほど憎むのであろう」
王妃は王が自分の言葉を信じていないことを知り、のちのち禍になることを心配した。
「お待ちください。
申し上げたことが嘘であれば、自ら罰を受ける覚悟でございます」
と言いながら号泣した。
王は好童のほうを疑い、罰することとした。
ある家臣が好童に言った。
「王子様はどうして王に釈明なさらないのですか」
「私が無実を訴えれば、王妃の悪が明らかとなり、父王の憂いが増えることになる。
これが孝と言えるだろうか」
好童はこう答え、逆さに立てた剣に体を被せて自決した。

15年(32年)冬12月、王子の解憂を皇太子に立てた。
後漢の建武8年(32年)、高句麗が後漢に朝貢した。
後漢の光武帝は、新の王莽が『侯』に格下げした高句麗の位を『王』に戻した。

20年(37年)、王は楽浪国を襲撃して滅亡させた。

27年(44年)秋9月、後漢の光武帝が軍を派遣した。海を渡った後漢軍は楽浪を討伐し、その地を後漢の郡県とした。
こうして、薩水(清川江)より南の地が後漢に属すこととなった。

27年(44年)冬10月、王が薨去した。
大獣村原(地名)に埋葬し、諡号を大武神王とした。


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