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文咨明王(もしくは明治好王)は、諱を羅雲といい、長寿王の孫である。
父は古鄒大加の助多だが、助多が早死にしたので、長寿王は羅雲を宮中で養育し、大孫とした。
長寿王が在位79年で薨去したので王位を継いだ。

元年(492年)春3月、北魏の孝文帝が遣使して、王を使持節の都督遼海諸軍事の征東将軍の領護東夷中郎将の遼東郡開国公の高句麗王に封じ、衣冠、服物、車旗の飾りを下賜した。
また、高句麗王に詔して、世継ぎを人質として入朝させるよう命じた。
王は皇太子が病気だと偽り、入朝を辞退した。
朝貢使として派遣された従叔(父の従兄弟)の升干は、北魏の使者の指示通りに宮殿を訪問した。

元年(492年)夏6月、北魏に朝貢した。
元年(492年)秋8月、北魏に朝貢した。
元年(492年)冬10月、北魏に朝貢した。

著者注:493年、北魏が洛陽に遷都する。
著者注:494年、夫餘が勿吉に滅ぼされる。

3年(494年)春正月、北魏に朝貢した。

3年(494年)春2月、夫餘王とその妻子が、国ごと投降して来た。
3年(494年)秋7月、高句麗軍は新羅軍と薩水の河原(忠清北道塊山郡)で戦った。
新羅は敗れ、犬牙城にたて籠もった。
高句麗兵が城を囲んだが、百済が3000の兵を派遣して新羅を助けたので、高句麗兵は引き上げた。
斉の皇帝が、王を使持節の散騎常侍の都督営平二州諸軍事の征東大将軍にして楽浪公に封じた。
北魏に朝貢した。

4年(495年)春2月、北魏に朝貢した。
4年(495年)夏5月、北魏に朝貢した。

4年(495年)秋7月、南方へ行幸して田猟し、海を望む場所に至って帰ってきた。

4年(495年)8月、派兵して百済の雉壌城を包囲した。
百済は新羅に援軍を求めた。
新羅王が将軍の徳智に出兵して助けるよう命じたので、高句麗軍は引き上げた。

5年(496年)、斉の明帝が、王を車騎将軍に封じた。
王は斉に朝貢した。
5年(496年)秋7月、派兵して新羅の牛山城を攻撃した。
新羅軍が泥河に出撃したため、高句麗軍は敗北した。

6年(497年)秋8月、派兵して新羅の牛山城を攻めて陥落させた。

7年(498年)春正月、王子の興安を皇太子とした。
7年(498年)秋7月、金剛寺を創建した。
7年(498年)秋8月、北魏に朝貢した。

8年(499年)、百済の民が飢え、2000人が投降して来た。

9年(500年)秋8月、北魏に朝貢した。

10年(501年)春正月、北魏に朝貢した。
10年(501年)冬12月、北魏に朝貢した。

著者注:502年、南朝の斉が滅び、梁が興る。
著者注:502年、倭国が梁に朝貢し、梁の武帝が倭国王を鎮東大将軍とする。

11年(502年)夏4月、梁(南朝の一国)の高祖が、王を車騎大将軍に封じた。

11年(502年)冬11月、百済が国境を犯した。

11年(502年)冬12月、北魏に朝貢した。

12年(503年)冬11月、百済は、達卒の優永に兵5000を率いさせ、水谷城(黄海道新渓郡)を攻撃した。

13年(504年)夏4月、北魏に朝貢した。
北魏の宣武帝は、東堂で高句麗使者の芮悉弗を引見した。
芮悉弗が進み出て言った。
「我が小国(高句麗)は天朝(北魏)に先祖代々忠誠を尽くし、特産物の献上を怠ったことがありませぬ。
ただ、黄金は夫餘で、メノウは渉羅(済州島)で産すもの。
夫餘は勿吉(松花江一帯にいたツングース系民族)に駆逐され、渉羅は百済に併合されておりまする。
この2品を献上できなかったのは、両賊(勿吉と百済)のためでございます」
宣武帝は言った。
「高句麗は代々上将の任を担い、もっぱら国外を制圧し、数々の蛮族を征伐してきた。
瓶(高句麗)に酒がないのは、酒樽(北魏)の恥である。
これを誰が咎めよう。
むかし高句麗が貢納を怠ったことがあったが、その原因は地方官にあった。
そちは朕の思いを主(高句麗王)に伝えよ。
威圧と懐柔を適宜用い、群がる賊を斬り捨て、東夷の地に安寧をもたらせ。
二邑(勿吉と百済)を旧所(高句麗)に戻し、献上品を失うことなく常に貢納せよ」

15年(506年)秋8月、王は龍山(地名)の南で田猟し、5日して戻った。

15年(506年)秋9月、北魏に朝貢した。

15年(506年)冬11月、将軍を派遣して百済を征伐した。

16年(507年)冬10月、北魏に朝貢した。
王は将軍の高老を派遣し、靺鞨と協議して、百済の漢城(京畿道広州市)を攻撃しようとした。
横岳の麓に陣を敷いているとき、百済が逆襲してきたので、兵を引き上げた。

17年(508年)、梁の高祖が詔して言った。
「高句麗王楽浪郡公某(羅雲)は、誠に忠誠心が篤く、朝貢を絶やしたこともない。
ここに爵位を授けるから、朝廷の偉功を広めよ。
撫軍大将軍にして開府儀同三司に任じる」

17年(508年)夏5月、北魏に朝貢した。
17年(508年)冬12月、北魏に朝貢した。

18年(509年)夏5月、北魏に朝貢した。

19年(510年)夏閏6月、北魏に朝貢した。
19年(510年)冬11月、北魏に朝貢した。

21年(512年)春3月、梁に朝貢した。
21年(512年)夏5月、北魏に朝貢した。

21年(512年)秋9月、百済に侵入し、加弗城と円山城を陥落させ、男女1000人あまりを捕虜にした

22年(513年)春正月、北魏に朝貢した。
22年(513年)夏5月、北魏に朝貢した。
22年(513年)冬12月、北魏に朝貢した。

23年(514年)冬11月、北魏に朝貢した。

24年(515年)冬10月、北魏に朝貢した。

25年(516年)夏4月、梁に朝貢した。

26年(517年)夏4月、北魏に朝貢した。

27年(518年)春2月、北魏に朝貢した。
27年(518年)夏4月、北魏に朝貢した。
27年(518年)夏5月、北魏に朝貢した。

28年(519年)、王が薨去したので、諡号を文咨明王とした。
北魏の霊太后が、文咨明王のために東堂で葬儀を行った。
高句麗に遣使し、文咨明王に車騎大将軍の称号を贈った。
このとき、北魏の孝明帝は10歳で、霊太后が摂政をつとめていた。

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長寿王は諱を巨連(もしくは院砲箸いぁ広開土王の子である。
豪傑で高い志を持っていた。
広開土王の18年(409年)に皇太子となり、22年(413年)に王が薨去して即位した。

著者注:413年、倭国が東晋に朝貢する。

元年(413年)、長史の高翼を東晋に派遣して上奏文を奉り、紅白斑の馬を献上した。
東晋の安帝は、王を高句麗王楽浪郡公に封じた。

著者注:420年、江南で東晋が滅び、宋が興る
著者注:421年、倭国が宋に朝貢する。

12年(424年)春2月、新羅が使者を派遣し修好を求めてきた。
王は使者を丁重に慰労した。

12年(424年)秋9月、大豊作だったので、王は宮殿で群臣を集めて宴会を開いた。

13年(425年)、北魏(398年に建国。首都は山西省大同市)に朝貢した。

15年(427年)、王は平壌に遷都した。

著者注:430年、倭国が宋に朝貢する。

23年(435年)夏6月、北魏に朝貢し、北魏皇帝の諱表を所望(高句麗が北魏の臣下になることを意味する)した。
世祖太武帝はその忠誠心を喜び、皇帝の系譜や諱を書き写して与えた。
太武帝は、員外散騎侍郎の李敖を派遣して、王を都督遼海諸軍事の征東将軍の領護東夷中郎将の遼東郡開国公にして高句麗王に任命した。
23年(435年)秋、王は北魏に遣使し、感謝の意を表した。
北魏がしばしば後燕を征伐し、後燕は存続があやうくなった。
後燕王の馮弘が言った。
「もし急を要するような事になったら、東へ逃げて高句麗に頼って再起をはかれ」
尚書の陽伊が密使として高句麗に派遣された。
陽伊は高句麗が亡命者を受け入れてくれることを願った。

24年(436年)、後燕王は北魏に遣使して入朝し、小姓を送りたいと願った。
北魏王はこれを許さなかった。
北魏は挙兵して後燕を攻撃しようとし、高句麗に遣使して参加を促した。

24年(436年)夏4月、北魏は後燕の白狼城を攻撃した。
王は、将軍の葛慮と孟光に数万の兵を与え、陽伊とともに和龍(中国遼寧省朝陽市)で後燕王を迎えさせた。
和龍城に入った葛慮と孟光は、兵士たちに燕のきれいな服に着替えるよう命じ、武器庫にあった精巧な武器を分け与えた。
城内で大々的に略奪を行った。

24年(436年)夏5月、後燕王は龍城の民を率いて高句麗に移った。
このとき城を燃やしたが、火は10日も消えなかった。
北魏軍の来襲に備え、婦人たちに甲冑を着させて内側に配し、陽伊たちは精鋭軍を率いて外側を行軍した。
葛慮と孟光は騎馬隊を率い、しんがりを勤めながら進んだ。
高句麗へ進む行列は、前後80里あまりになった。

これを聞いた北魏王は、散騎常侍の封撥を派遣して、高句麗王に後燕王を北魏へ送るよう命じた。
高句麗王は北魏に使者を派遣して上表文を奉り、後燕王の馮弘とともに北魏に仕えたいと願った。
北魏王は、高句麗が勅命に従わなかったとして、高句麗攻撃の会議を開いた。
北魏王は、隴右(中国甘粛省蘭州市)にいる騎馬軍を動員しようとしたが、劉呂箜敲寝Δ緑たちが反対して諫めたので、攻撃は中止された。

25年(437年)春2月、北魏に朝貢した。

著者注:438年、倭国が宋に朝貢する。

26年(438年)春3月、以前(436年)後燕王の馮弘が遼東に着いたとき、王は遣使して労をねぎらって言った。
「龍城王馮君(王を君に格下げして呼んでいる)は、慣れない野営で兵馬も疲れていることでしょう」
馮弘は惨めな境遇の自分を恥じながらも、使者を怒鳴りつけて罵った。
王は馮弘を平郭(地名)に住まわせ、後に北豊(地名)に移した。
馮弘は高句麗を見下し、北豊での政治や賞罰は後燕国時代と同じであった。
王は、馮弘から身のまわりの世話をする小姓を奪い、皇太子の王仁を人質とした。
馮弘はこれを恨み、宋(420年建国の南朝国家)に遣使して上表文を奉り、迎えに来てくれるよう頼んだ。
宋の太祖は王白駒たちを派遣して、馮弘を迎えることとし、高句麗に支度品といっしょに馮弘を送るよう命じた。
高句麗王は馮弘を南に行かせることを望まず、将軍の孫漱や高仇等を派遣し、北豊で馮弘と子孫十数人を殺させた。
王白駒たちは7000あまりの兵で孫漱と高仇を急襲し、高仇を殺し、孫漱を生け捕りにして帰国した。

高句麗王は王白駒たちを殺そうと思い、宋に遣使して王白駒たちを送るよう求めた。
宋の太祖は、高句麗が宋の命令に従わないのを不満に思い、王白駒たちを形式的に獄につないだあとで釈放した。

著者注:439年、北魏が黄河流域以北を統一し、中国は南北朝時代に入る。

27年(439年)冬11月、北魏に朝貢した。
27年(439年)冬12月、北魏に朝貢した。

著者注:443年、倭国が宋に朝貢する。

38年(450年)、新羅人が辺境の将を襲って殺した。
王は怒って、兵を派遣して討たせようとした。
新羅王が使者を送り謝罪したので、派兵を中止した。

42年(454年)秋7月、高句麗軍が新羅の北辺に侵入した。

43年(456年)、宋に朝貢した。

著者注:462年、倭国が宋に朝貢する。


50年(462年)春3月、北魏に朝貢した。

51年(463年)、宋の世祖孝武皇帝が高句麗王を、車騎大将軍にして開府儀同三津司に封じた。

53年(465年)春2月、北魏に朝貢した。

54年(466年)春3月、北魏に朝貢した。
北魏の文明太后が、顕祖献文帝の後宮に人が足りないので公主を推薦するよう言ってきた。
王は上奏文を奉って報告した。
「娘はすでに嫁いでいないので、王弟の娘でもよろしいでしょうか」
ある家臣が以下のようなことを王に勧めた。
文明太后はこれを許し、安楽王の真や尚書の李敷たちを派遣し、国境で結納の品を渡した。
「昔、魏は燕と婚姻を結びましたが、しばらくして燕を滅ぼしました。
それは魏の使者が燕の実情を熟知していたためでございます。
燕の失策を鑑みるに、何か言い訳を考えて辞退されるのがよろしいかと思いまする」
王は、送り出す予定の娘が死んでしまったと伝えさせた。
北魏は高句麗が嘘をついているのではないかと疑った。
派遣された仮散騎常侍の程駿は、厳しく問い正した。
そして『その娘が死んでしまっているなら、ほかの王族の娘でもかまわない』ということになった。
王は言った。
「もし天子様が前の過ちをお許しくださるのでしたら、勅令を謹んで拝受いたします」
その後、顕祖が崩御したので、婚姻は中止された。

55年(467年)春2月、北魏に朝貢した。

56年(468年)春2月、王は靺鞨の兵10000を率い、新羅の悉直州城(江原道三陟)を陥落させた。

56年(468年)夏4月、北魏に朝貢した。

57年(469年)春2月、北魏に朝貢した。

57年(469年)秋8月、百済兵が南辺に侵入した。

58年(470年)春2月、北魏に朝貢した。

59年(471年)秋9月、民の奴各たちが北魏に投降した。
北魏王は家と畑を下賜した。
北魏の高文帝の延興元年(471年)のことである。

60年(472年)春2月、北魏に朝貢した。
60年(472年)秋7月、北魏に朝貢した。
このときから献上する朝貢品が2倍になり、下賜品がいくばくか増えた。

61年(473年)春2月、北魏に朝貢した。
61年(473年)秋8月、北魏に朝貢した。

62年(474年)春2月、北魏に朝貢した。
62年(474年)秋7月、北魏に朝貢した。
宋に朝貢した。

63年(475年)春2月、北魏に朝貢した。
63年(475年)秋8月、北魏に朝貢した。

63年(475年)秋9月、王は兵30000を率いて百済に侵入し、王都の漢城(京畿道)を陥落させ、王の扶餘慶を殺し、男女8000を捕虜にして連れ帰った。

64年(476年)春2月、北魏に朝貢した。
64年(476年)秋7月、北魏に朝貢した。
64年(476年)秋9月、北魏に朝貢した。

65年(477年)春2月、北魏に朝貢した。
65年(477年)秋9月、北魏に朝貢した。

著者注:478年、倭国が宋に朝貢する。

66年(478年)、宋に朝貢した。
百済の燕信が投降して来た。

著者注:479年、南朝の宋が滅び、斉が興る。
著者注:479年、倭国が斉に朝貢する。

67年(479年)春3月、北魏に朝貢した。
67年(479年)秋9月、北魏に朝貢した。

68年(480年)夏4月、斉(479年建国の南朝国家)太祖の蕭道成が、高句麗王を驃騎大将軍に封じた。
王は餘奴たちを斉に派遣して朝貢させようとしたが、光州(中国山東省掖県)の人が海上で餘奴たちを捕まえて、魏の王宮に送った。
北魏の高文帝は、詔をして高句麗王を責めて言った。
「蕭道成は自ら君主を殺害し、長江の南で王位に就いている。
朕は、宋を再興して劉氏に王統を継がせるつもりだ。
卿(高句麗王)は越境外交を行い、遠方の逆賊(斉のこと)と通じようとしている。
藩臣(高句麗王)が守るべき義といえるのか。
一度の過ちで旧交を断つつもりはない。
卿の使者は藩(高句麗)に帰す。
心の広さを感じて反省し、朕の指示に従え。
国内を安寧にし、状況を逐次報告せよ」

69年(481年)、斉に朝貢した。

72年(484年)冬10月、北魏に朝貢した。
このとき、魏の人は高句麗が強国であると言って、朝貢国の使者に提供する館を配するとき、斉を第一とし、高句麗をその次とした。

73年(485年)夏5月、北魏に朝貢した。
73年(485年)冬10月、北魏に朝貢した。

74年(486年)夏4月、北魏に朝貢した。

75年(487年)夏5月、北魏に朝貢した。

76年(488年)春2月、北魏に朝貢した。
76年(488年)夏4月、北魏に朝貢した。
76年(488年)秋閏8月、北魏に朝貢した。

77年(489年)春2月、北魏に朝貢した。
77年(489年)夏6月、北魏に朝貢した。

77年(489年)秋9月、出兵して新羅の北辺を侵し、狐山城を陥落させた。

77年(489年)冬10月、北魏に朝貢した。

78年(490年)秋7月、北魏に朝貢した。
78年(490年)秋9月、北魏に朝貢した。

79年(491年)夏5月、北魏に朝貢した。
79年(491年)秋9月、北魏に朝貢した。

79年(491年)冬12月、王が薨去した。
98歳だったので、諡号を長寿王とした。
北魏の孝文帝はこれを聞き、白装束を身にまとわせ、東郊で哀悼の儀式を挙行させた。
また、謁者僕射の李安上を高句麗に派遣し、車騎大将軍の大傅の遼東郡開国公にして高句麗王という称号を贈り、諡号を康とした。

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広開土王(もしくは好太王)は、諱を談徳といい、故国壌王の子である。
生まれながら勇敢で偉人の風格があり、崇高な志を持っていた。
故国壌王の3年(386年)に皇太子となり、9年(386年)に王が薨去したので即位した。

元年(392年)秋7月、南の百済を征伐して、10城を落とした。

元年(392年)秋9月、北の契丹を征伐した。
このとき、男女500を捕虜としたが、捕虜の呼びかけで10000人が高句麗に来た。

元年(392年)冬10月、百済の関彌城を陥落させた。
関彌城は四方を海に囲まれていたが、王は7方向から攻撃し、20日で落城させた。

2年(393年)秋8月、百済が我が国の南境を侵したので、王は将軍に命じてこれを防いだ。
王は都の平壌に九つの寺院を建立した。

3年(394年)秋7月、百済が侵攻してきたので、王は精騎5000を率いて迎え撃って破った。
残りの兵もその日の夜に逃げた。

3年(394年)秋8月、国の南部に7つの城を築いて、百済の侵入に備えた。

4年(395年)秋8月、王は、百済とバイ(サンズイに貝)水(北朝鮮の礼成江)の畔で戦って大勝利を収め、8000あまりの捕虜を得た。

9年(400年)春正月、後燕に朝貢した。

9年(400年)春2月、後燕王の慕容盛は、高句麗王の礼がおろそかだとして、30000の兵を率いて攻撃した。
驃騎大将軍の慕容熙を先鋒として、新城と南蘇の700里あまりの地を奪い、5000戸の住民を連行した。

11年(402年)、王は兵を派遣して後燕の宿軍を攻撃した。
後燕の平州刺史の慕容帰は城を棄てて逃亡した。

著者注:404年、倭軍が高句麗軍と戦う。

13年(404年)冬11月、出兵して後燕に侵入した。

14年(405年)春正月、後燕王の慕容熙が来寇して遼東城を攻めた。
まさに落城しようとしたとき、慕容熙は将兵たちに先に入城しないよう命じた。
その理由は、城が平定された後で王と皇后が輿に乗って入城するためであった。
そんなことをしている間に、遼東城が軍備を厳重に整えたため、後燕軍は城を落とすことができずに引き上げた。

15年(406年)冬12月、後燕王の慕容熙が契丹を襲った。
陘北(中国山西省)に至ったところで、契丹軍の多さに恐れをなし、軍事物資を棄てて帰還した。
その後、軽装備になった後燕軍が高句麗を襲撃した。
しかし、3000里あまり行軍していたため、兵士も軍馬も疲弊していて、凍死する者が道に連なる状態だった。
我が国の木底城(中国遼寧省撫順市)を攻撃したが、勝てずに帰って行った。

16年(407年)春2月、宮殿を修造した。

17年(408年)春3月、王は北燕に遣使し、北燕王の慕容雲が同族であることを述べた。
北燕王の慕容雲は、侍御史の李抜を返礼使として派遣した。
慕容雲の祖父の高和は、高句麗の分家にあたり、自ら高陽氏の末裔と称し、高を氏としていた。
北燕王の慕容宝は高雲を皇太子とした。
高雲は武芸に優れ、当時皇太子だった慕容宝に仕えた。
この後、慕容宝は高雲を養子にして慕容の姓を与えた。

18年(409年)夏4月、王子の巨連を皇太子とした。

18年(409年)秋7月、国の東部に禿山城など6城を築き、平壌の住民を移住させた。

18年(409年)秋8月、王は南方に行幸した。

著者注:413年、倭が東晋に朝貢する。

22年(413年)冬10月、王が薨去した。
諡号を広開土王とした。

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故国壌王は、諱を伊連(もしくは於只支)といい、小獣林王の弟である。
小獣林王が在位14年で薨去したが、跡継ぎがおらず伊連が即位した。

2年(385年)夏6月、王は40000の兵で遼東郡を攻撃した。
後燕王の慕容垂は、帯方王の慕容佐に命じて王都の龍城を守らせていた。
慕容佐は高句麗が遼東郡を攻撃したと聞き、司馬郝景を派遣して救援させたが、高句麗軍はこれを撃破した。
ついに高句麗軍は遼東郡と玄莵郡を陥落させ、男女10000を捕虜にして帰還した。
2年(385年)冬11月、後燕王の慕容農(慕容垂の第3子)が兵を率いて侵入し、遼東郡と玄莵郡を奪い返した。
これまでに、幽州(中国河北省)と冀州(中国山西省)の民がたくさん濃高句麗に流れてきていた。
慕容農は范陽(中国河北省)の龐淵を遼東太守に任命し、流民を慰撫して帰らせた。

3年(386年)春正月、王子の談徳を皇太子とした。

3年(386年)秋8月、王は兵を徴発して、南の百済を征伐した。

6年(389年)秋9月、百済が侵入し、南辺の部落を略奪して帰った。

7年(340年)秋9月、百済王は、達卒(百済の官位名)の真嘉謨に都押城(黄海道)を攻略させ、200人を捕虜にして連れ帰った。

9年(342年)春、王は新羅に使者を出して修好を求めた。
新羅王は甥の実聖を人質として派遣してきた。

9年(342年)春3月、教書を発布して、仏教を崇拝して幸福を求めることにした。
各地の役所に命じて、地方神を祭る廟を建立させ、先祖を祭る宗廟を修造させた。

9年(342年)夏5月、王が薨去した。
故国壌に埋葬し、諡号を故国壌王とした。

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小獣林王(もしくは小解朱婁王)は、諱を丘夫といい、故国原王の子である。
背丈が高く、雄大な計略を持っていた。
故国原王の25年(355年)に皇太子となり、41年(371年)に王が薨去したので即位した。

2年(372年)夏6月、前秦皇帝の符堅が使者と仏僧の順道を派遣して、仏像や経典を贈ってきた。
王は返答使を派遣し、返礼として宝物を贈った。
大学を創設して、子弟を教育した。

3年(373年)、初めて律令を発布した。

4年(374年)、仏僧の阿道が来訪した。

5年(375年)春2月、初めての寺院として肖門寺を建立し、道順を置いた。
また、伊弗蘭寺を建立し、阿道を置いた。
これが海東(渤海の東)での仏教の始まりである。

5年(375年)秋7月、百済の水谷城(黄海道新渓)を攻撃した。

6年(376年)冬11月、王は百済の北境を侵略した。

7年(377年)冬10月、百済が30000の兵を率いて平壌城を攻撃した。

7年(377年)冬11月、王は百済を討伐した。
王は南の百済を征伐した。
前秦の符堅に使者を出して朝貢した。

8年(378年)秋9月、契丹(モンゴル系の遊牧民族)が、我が国の北境に侵入した。

14年(384年)冬11月、王が薨去した。
小獣林に埋葬し、諡号を小獣林王とした。

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故国原王(もしくは国岡上王)は、諱を斯由(もしくは 砲箸いΑ
美川王15年(314年)に皇太子となり、32年(331年)春、王が薨去して即位した。

2年(332年)春2月、王は卒本へ行幸して始祖廟を祭った。
このとき、老人や病人を慰問し、食糧や衣服を分け与えた。
2年(332年)春3月、王は卒本から戻った。

4年(334年)秋8月、平壌城を拡張した。

5年(335年)春正月、北部地域に新城(中国遼寧省撫順市)を築城した。

9年(339年)、前燕(五胡十六国のひとつ。中国遼寧省にあった)の始祖である慕容皝が侵攻し、新城へ迫った。
王が同盟を求めたので、前燕軍は引き上げていった。

10年(340年)、前燕に朝貢し、王の世継ぎが慕容皝に謁見した。

12年(342年)春2月、丸都城を修復し、国内城を築いた。
12年(342年)秋8月、丸都城に遷都した。

12年(342年)冬10月、前燕が龍城(中国遼寧省朝陽市)に遷都した。
建威将軍の慕容翰(慕容皝の実兄)が、まず高句麗を取り、次に宇文部を滅ぼし、その後に中原(中国河南省一帯)に進出することを願った。
高句麗への道はふたつあり、北道は平坦で広く、南道は険しくて狭かった。
そのため、多くの者が北からの進攻を希望した。
しかし、慕容翰は言った。
「敵は常識的に考え、大軍は北道から来ると判断し、北の守備を厚く、南の守備を薄くするでしょう。
王(慕容皝)は精鋭を率いて南道から攻撃して不意をついてください。
北道は無視してもかまいませんが、別働隊を出しておきましょう。
もしうまくいかなくても、敵の主力部隊は壊滅していますから、枝葉の部隊では何もできません」
慕容皝はこれに従った。

12年(342年)冬11月、慕容皝は精鋭40000を率いて南道を進んだ。
慕容翰と慕容覇が先鋒となり、長史の王㝢等は15000の兵を率いて北道から侵入した。
王は、王弟の武に精鋭50000の兵を与えて北道を守らせた。
そして、自らは弱兵を率いて南道で備えた。
慕容翰等の先鋒軍が戦闘の口火を切り、慕容皝の主力軍がこれに続いた。
高句麗軍は大敗し、左長史の韓寿が我が国の将軍である阿仏和度加を斬った。
前燕の諸軍は勝ちに乗じて丸都に入城した。
王は単騎で断熊谷(地名)へ逃げ込んだ。
将軍の慕輿埿は追撃して、王母の周氏と皇后を捕らえて帰還した。
王㝢たちは北道で戦ったが、負けて殺されてしまった。
そのため、慕容皝は北道へ逃れた高句麗軍を追わなかった。
慕容皝は使者を出して高句麗王を招いたが、王は出向かなかった。
龍城へ帰還しようとする慕容皝に韓寿が言った。
「高句麗の地は容易に守れるところではありませぬ。
いまは王も民も四散して山や谷に潜伏しておりますが、我が軍が去れば鳩のようにまた集まるに決まっております。
再び集まった敵軍は、我が国を煩わせること必定。
父王の遺骸を掘り出し、皇太后を捕え、とともに連れ帰ってくださいませ。
高句麗王が身をつつしんで帰順してきたときに帰せばよろしいでしょう。
恩義と信頼をもって手なずけることが上策かと存じます」
慕容皝は韓寿の意見に従った。
美川王の墓をあばいて遺骸を車に乗せ、国倉に収められていた先祖代々の宝物を没収し、男女50000を捕虜にし、宮殿を焼いて丸都城を破壊してから龍城に帰還した。

13年(343年)春2月、王は王弟を前燕に派遣した。
王弟は臣下と称して朝貢し、1000にも上る珍奇な宝物を献上した。
慕容皝は美川王の遺骸は返したが、皇太后は人質としてそのまま留め置いた。

13年(343年)秋7月、平壌の東にある黄城に遷都した。
東晋に遣使して朝貢した。

15年(345年)冬10月、慕容皝は息子の慕容恪に命じて我が国を攻撃させた。
慕容恪は南蘇(中国遼寧省撫順市)を攻略し、ここに駐屯軍を置いて引き上げた。

19年(349年)、王は、捕虜となっていた前東夷護軍の宋晃を前燕に送り届けた。
前燕王の慕容雋は宋晃を許し、名を活と改めさせ、中尉に任命した。

25年(355)春正月、王子の丘夫を立てて皇太子とした。

25年(355)冬12月、王は前燕に使者を派遣し、人質と貢物を差し出して皇太后の帰還を願い出た。
前燕王の慕容雋はこれを許し、殿中将軍の刀龕に王母周氏を送り届けさせ、王を征東大将軍営州刺史に任命し、楽浪公王に封じ、王号は従来どおりとした。

著者注:369年、倭が百済と国交を結び、朝鮮半島に出兵する。


39年(369年)秋9月、王は20000の兵で南の百済を討とうとし、雉壌で戦ったが敗れる結果となった。

40年(370年)、前秦の王猛が前燕を滅ぼした。
前燕の太傅の慕容評が逃げて来たが、王は前秦に送った。

41年(371年)冬10月、百済王が30000の兵を率いて平壌城を攻撃した。
王は自ら率いて防戦したが、流れ矢があたって23日に薨去した。
王は故国の野原に埋葬された。

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美川王(もしくは好壌王)は、諱を乙弗(もしくは憂弗)といい、西川王の王子だった古鄒加の咄固の子(西川王の孫)である。
烽上王は弟の咄固を異心ありとして殺害した。
子の乙弗は、殺されるのを恐れて逃げた。
乙弗は水室村へ行き、陰牟という人の家で小作人となった。
陰牟はどこの者とも知れぬ男を酷使した。
家の横の湿地で蛙が鳴いてうるさいので、夜になると乙弗に瓦礫や石を投げさせて鳴くのをやめさせた。
昼間には薪を採らせた。
始終見張り、片時も休ませなかった。
その苦しみに耐えることができず、乙弗は1年で陰牟の家を去った。
その後、東村人の再牟といっしょに塩を売った。
あるとき、舟に乗って鴨緑江を進んだ後、塩を持って舟を降り、東岸にある思収村にある人家に立ち寄った。
その家の老婆が塩を欲しがったので1斗だけ与えた。
老婆はさらに欲しがったが、乙弗は与えなかった。
老婆はこれを恨み、自分の履物を乙弗の塩袋に潜ませた。
乙弗はそれに気付かないまま、塩袋を背負って出かけた。
乙弗を捜し出した老婆は、自分の履物が盗まれたと鴨緑江の役所に訴え出た。
役所は、履物の値段分だけ塩を老婆に渡すよう命じ、乙弗を笞刑(大棒で体を叩く刑で死亡することも多かった)に処してから釈放した。
体も衣服もボロボロになってしまったため、その人が王の孫だと思う人はひとりもいなかった。
このとき、国相の倉助利は王を廃そうとしていた。
倉助利は、北部の祖弗や東部の蕭友等を派遣して山野で乙弗を捜索させた。
沸流の川岸に来たとき、舟上にいる男が見えた。
憔悴しきっている様子だが、その動きが普通でなかった。
蕭友たちは、あの男が乙弗ではないかと思い、近づいて拝礼して言った。
「いまの国王は無道で、国相と群臣は現王を廃そうと密かに動いております。
乙弗様は、ひかえめで、思いやりがあり、慈悲深く、人を大切にされる方で、王位を継ぐべき人物でございます。
倉助利様が我々を派遣され、こうしてお迎えに上がった次第です」
乙弗は疑って言った。
「私はただの行商人で、王族などではありません。
ひと間違いでしょうから、もっと別のところをお捜しください」
蕭友たちは言った。
「いまの王は人の心を失くして久しく、もとより君主としてふさわしくありませぬ。
そのため、群臣は乙弗様の即位を待ち望んでおります。
どうかお疑いにならぬようお願い申し上げます」
ついに、蕭友たちは乙弗を奉じて帰京することができた。
倉助利は喜んだが、王に知られてはまずいと考え、乙弗を鳥陌の南家に匿い、誰にも教えなかった。

元年(300年)秋9月、烽上王は侯山(地名)の北に田猟した。
国相の倉助利も随行した。
倉助利は、家来たちに向かって言った。
「おれと同じ気持ちの者はアシの葉を冠に挿せ」
家来たちがみな挿したので、倉助利は家来もみな同じ気持ちだと知った。
倉助利は家来たちとともに烽上王を廃して別室に幽閉し、兵に周囲を守らせた。
こうして、群臣に迎えられた乙弗は、王の印綬を受けて即位した。

3年(302年)秋9月、王は30000の兵を率いて玄莵郡に侵入し、8000人の捕虜を得て平壌に連れ帰った。

12年(311年)秋8月、王は将軍を派遣して、遼東郡の西安平県を侵略して併合した。

著者注:313年、中国の史書ではこの年に楽浪郡と帯方郡が滅亡したとされる。

14年(313年)冬10月、王は楽浪郡に侵入し、男女2000人を捕虜にした。

15年(314年)春正月、王子の斯由を立てて皇太子とした。

15年(314年)秋9月、王は南の帯方郡に侵攻した。

16年(315年)春2月、玄莵城を攻略して破り、殺したり捕虜にした人が甚大な数になった。

著者注:317年、西晋が滅亡する。以後、隋が再統一する589年まで分裂状態が続く。

20年(319年)冬12月、西晋の平州刺史(長官)だった崔擇出奔してきた。
この前、崔擇蓮高句麗、段部(鮮卑の一部族)、宇文部(鮮卑の一部族)を説得し、3国に慕容廆を攻撃させた。
3国は慕容廆の本拠地である棘城(中国遼寧省朝陽市)に進攻した。
慕容廆は城門を固く閉ざして墨守したが、宇文部にだけは牛肉と酒を贈った。
我が国と段部は、慕容廆と宇文部が共謀しているのではないかと疑い、それぞれ兵を率いて帰った。
宇文部の大人(官職名)の悉独官は言った。
「高句麗と段部は帰ってしまったが、我が国だけでも棘城を落とそう」
慕容廆は、息子の慕容皝と長史の裴嶷に精鋭を与えて先鋒に立て、自らは大軍を率いてこれに続いた。
悉独官は大敗し、なんとか自分だけ逃げることができた。
これを聞いた崔擇蓮∨杜で攻略しようと考え、兄の子の崔を偽の祝賀使として棘城へ派遣した。
しかし、老獪な慕容廆はこれを見抜き、兵で脅して崔にすべてを白状させた。
慕容廆は崔を帰国させて、次のように言わせた。
「投降するのが上策で、逃亡するのは下策である」
慕容廆は兵を率いて崔を追った。
崔擇録十騎で居城から逃げ出した。

残された者たちはみな慕容廆に降伏した。
慕容廆は息子の慕容仁に遼東郡を治めさせた。
郡内に混乱は起こらず、以前とかわりなかった。

高句麗将軍の如孥が河城(地名)にいた。
慕容廆は将軍の張統を派遣して河城を急襲させた。
1000戸あまりが捕虜として棘城に連行された。

王はしばしば遼東郡に派兵した。
慕容廆は、慕容翰と慕容仁を派遣して高句麗軍を討伐した。
王が同盟を求めたので、慕容翰と慕容仁は棘城に戻った。

21年(320年)冬12月、王は軍を派遣して遼東郡を攻撃したが、慕容仁が防戦して高句麗軍を討ち破った。

31年(330年)、王は、後趙(五胡十六国のひとつ。中国河北省にあった)の始祖である石勒に使者を出し、楛の木で作った矢を贈った。

32年(331年)春2月、王が薨去した。
王は美川の野原に埋葬され、諡号を美川王とした。

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烽上王(もしくは雉葛王)は、諱を相夫(もしくは歃矢婁)といい、西川王の長子である。
幼いとき、わがままで疑い深かった。
西川王の23年(292年)に王が薨去したので、皇太子の相夫が王位に就いた。

元年(292年)春3月、王は安国君の達賈を殺した。
実の伯父(父の弟)で、功績が大きく、民から慕われている達賈が、王位を簒奪するのではないかと疑った王は、達賈を謀殺した。
人々は言った。
「安国君がいなければ、梁貊や粛慎の侵入を防ぐことはできなかった。
安国君がいなくなって、将来を誰に託せばよいのか」
弔問して涙を流さない民はいなかった。

2年(293年)秋8月、前燕の慕容廆が来寇した。
王は前燕軍を避けるため、新城(中国遼寧省撫順市)に行こうとした。
鵠林(地名)へ至ったところで、慕容廆は王の逃亡を知り、軍を従えて追撃した。
前燕軍がまさに追いつこうとしたとき、王は何もすることができず、恐れおののくばかりであった。
そのとき、新城隊長で北部の小兄(14等級中第11の官位)の高奴子が500騎を率いて王を迎えに来た。
高奴子は奮闘して慕容廆軍を撃退した。
王は喜んで、高奴子を大兄(14等級中第10の官位)に昇格させ、鵠林を与えた。

2年(293年)秋9月、王弟の咄固が謀反を起こそうとしているとして、王は咄固に死を命じた。
民は、咄固に罪がないことを嘆き悲しんだ。
咄固の子の乙弗は野に逃げた。

3年(294年)秋9月、国相の尚婁が逝去したので、南部の大使者の倉助利を国相に任命し、大主簿の爵位を授けた。

5年(296年)秋8月、慕容廆が侵入し、故国原に至った。
西川王の陵墓を見つけた慕容廆は、部下に命じて墓をあばかせたが、作業を行った者が急死した。
また、墓室内から雅楽が聞えてきた。
慕容廆たちは、そこに神がいると恐れ、引き返して行った。
王が群臣に言った。
「慕容廆の兵馬は屈強で、しばしば我が国の辺境へ侵入してくる。
どうすればよいか」
国相の倉助利が答えた。
「北部の大兄の高奴子は賢にして勇でございます。
賊軍を抑えて民を安心させたいとお考えでしたら、高奴子以外に用うるべき人物はおりませぬ」
王は高奴子を新城太守に任命した。
高奴子は新城地域で善政を行い、その威声がすみずみまでとどろいたので、慕容廆が侵入することはなかった。

7年(298年)秋9月、霜と雹で作物が枯れ、民は飢えた。
7年(298年)冬10月、王は壮麗華美な宮室を増築しようとした。
民が飢えて困窮していることを理由に、群臣は造営に反対した。
しかし、王は聞き入れなかった。
7年(298年)冬11月、王は乙弗を見つけ出して殺そうとしたが、見つけることはできなかった。

著者注:300年、西晋で八王の乱が起こり、中国は内乱状態に陥る。

9年(300年)春正月、王都に地震があった。
2月から7月まで雨が降らず、飢餓民が互いを食べた。
9年(300年)秋8月、王は15歳以上の男女を徴発して王宮の修営に従事させた。
食が乏しいところに労役まで課されたため、民は流浪してしまった。
倉助利は諫めて言った。
「天災が続き、穀物が実らず、民は生きるすべを失くしております。
壮健な者は四方へ流離し、年寄りや子供は溝にころがって野垂れ死にしております。
誠に天を恐れ民を憂うるときでございます。
いまこそ自省していただきとうございます。
大王は、飢えに苦しむ人々を宮殿の労役に狩り出して更に困らせるばかりで、それを省みることすらございませぬ。
民の父母であらねばならぬのに、これではいけませぬ。
それに、周囲には強敵が待ち構えておりまする。
もし我が国の疲弊に乗じて襲ってきたら、民と国はどうなるのでございましょう。
どうか熟考なさってくださいませ」
王は怒って言った。
「君主というのは、民が羨望の目で仰ぎ見る存在である。
宮殿が壮麗でなければ、どのようにして威厳を示すのか。
国相(倉助利)は朕を誹謗することで、民から褒められようとしているのではないのか」
倉助利は答えて言った。
「大王は民をいつくしむことがないようでございます。
これが仁とは言えませぬ。
家臣が王を諫めなければ、忠とは言えませぬ。
国相を拝命した以上、申し上げないわけにはいきませぬ。
民の賞賛を得ようなどとは、思いもよらぬところでございます」
王はニヤリとして言った。
「国相は民のために死のうというのか。
死にたくなければ、これからは何も言うな」
倉助利は、王がどうしようもない愚か者であることを知った。
そして自分に害が及ぶのを恐れ、王宮から退出すると群臣と相談し、今の王を廃して乙弗を新王に迎えることにした。
王は、死から逃れられないことを知って自決した。
ふたりの王子も殉死した。
王は烽山の野原に埋葬され、諡号を烽上王とした。

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西川王(もしくは西壌王)は、諱を薬慮(もしくは若友)といい、中川王の第二子である。
聡明で思いやりがあり、民は王を敬愛してやまなかった。
中川王の8年(255年)に皇太子となり、23年(270年)冬10月に王が薨去したので、皇太子が即位した。

2年(271年)春正月、西部の大使者の于漱の娘を皇后にした。
2年(271年)秋7月、国相の陰友が逝去した。
2年(271年)秋9月、尚婁を国相に任命した。
尚婁は陰友の子である。

著者注:280年、西晋が中国を統一する。

11年(280年)冬10月、粛慎が侵入して、辺境の民を殺したので、王は群臣に言った。
「朕は小さな体躯で、国の大元となる王になった。
朕の徳では、国を安寧にすることができぬ。
朕の威厳では、内外を威圧することができぬ。
隣敵の粛慎は、狡猾にも我が国の辺境を侵した。
計略に優れた大臣と勇猛果敢な将軍に、他国との折衝を任せたい。
奇抜で優れた計略を考え出す者と、戦場での指揮能力に秀でた武人を推挙せよ」
群臣は口を揃えて言った。
「王弟の達賈様は、勇敢で知略があり、大将に最適のお方でございます」
そこで、王は達賈を派遣して、粛慎を討たせた。
達賈は、奇策を用いて敵の隙を突いた。
檀慮城を落城させ、そこの酋長を殺した。
夫餘(中国吉林省白城市)の南にある烏川(松花江流域)に600戸あまりを遷し、投降してきた6、7の部落はそのまま高句麗の郡県に組み込まれた。
大喜びした王は、達賈を安国君とし、知内外兵馬事の爵位を授け、梁貊と粛慎の諸部落を治めさせた。

17年(286年)春2月、王弟の逸友と素勃が謀反を企てた。
病気と偽って湯治に行き、腹心の家来たちと無節操に楽しんだあと、反逆の方策を議論した。
王はふたりを呼び出すため、『国相に任命するからすぐ出仕せよ』と嘘をついた。
王は近衛兵に命じ、現れたふたりを捕まえて誅殺させた。

23年(292年)、王が薨去した。
西川の野原に埋葬され、諡号を西川王とした。

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中川王(もしくは中壌王)は、諱を然弗といい、東川王の子である。
きりりとして爽やかな印象の容貌を持ち、知略に優れていた。
東川王の17年(243年)に立太子され、22年(248年)の秋9月、先王の薨去によって即位した。

著者注:この頃、奈良県に前方後円墳が出現し、大和王朝が誕生する。

元年(248年)冬10月、掾氏を皇后とした。
元年(248年)冬11月、王弟の預物や奢句たちが謀反を起こし、誅殺された。

3年(250年)春2月、王は国相の明臨於漱に、知内外兵馬事(軍務大臣)を兼務させた。

4年(251年)夏4月、王は、貫那婦人を皮袋に詰めて西海(渤海)に棄てさせた。
貫那婦人は佳麗な美人で、髪が九尺もあった。
王は貫那婦人を愛し、小后に立てようとした。
王の寵愛が貫那婦人に独り占めされるのを恐れた皇后の掾氏は、王に言った。
「聞くところによりますと、なんでも西方の魏が大金を出して長髪を買い集めているとか。
昔、先王(東川王)は中国に礼を以って接することがなく、そのため魏軍に攻め込まれて国外に逃げ出し、あやうく国がなくなるところでした。
いま王が魏に遣使して長髪の美人を献上すれば、魏は喜んで受け取り、我が国に侵入することもないでしょう」
王は皇后の意図を知ったが、黙って答えなかった。
貫那婦人はこの話を聞き、皇后に殺されるのではないかと恐れた。
婦人は王に讒言した。
「皇后様はいつも『田舎者の女がいつまでここにいるつもりなの。自分で帰らないなら必ず後悔させてやる』とおっしゃられます。
大王が外出されている隙を狙って、私を亡き者にしようとしているのでございます。
どうしたらよろしいのでしょうか」
その後、王が箕丘(地名)で田猟して戻ると、貫那婦人が革袋を抱えて迎えに出てきた。
婦人は泣きながら言った。
「皇后様が私をこの中に入れて海に捨てようとされました。
幸いにも大王がわずかな命をお与えくださり、私を実家に戻していただけるのでしたら、これ以上大王の側に侍ることを望みません」
王が問いただすと、貫那婦人の嘘が明らかになった。
王は怒って言った。
「おまえはそんなに海に入りたいのか」
王は夫人を海に棄てさせた。

7年(254年)夏4月、国相の明臨於漱が逝去したので、沸流部の沛者の陰友を国相に任命した。

8年(255年)、王子の薬盧を皇太子に立て、国内に恩赦を行った。

9年(256年)冬11月、掾那部の明臨笏覩が皇女を娶り、駙馬都尉(王の婿に与えられる名誉官位)となった。

12年(259年)冬12月、魏の将軍の尉遅が兵を率いて攻めて来た。
王は精兵5000騎を選び、梁貊の谷で戦って勝利した。
討ち取った首は8000あまりだった。

13年(260年)秋9月、王は卒本に行幸し、始祖廟を祭った。

著者注:265年、司馬炎が魏を倒して西晋王朝を開く。

著者注:266年、倭女王壱与が西晋に遣使する。

23年(270年)冬10月、王が薨去した。
中川の野原に埋葬し、諡号を中川王とした。

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東川王(もしくは東襄王)は、諱を優位居(もしくは位宮)といい、幼名を郊彘といった。
山上王の長子である。
母は酒桶村の人で、王宮に入って山上王の小后となった。
史料がないため、部族の姓はわからない。
先王の17年に皇太子となり、この年(227年)になって王位を継いだ。
王は、心が広く思いやりがあった。
皇后は、王の気持ちを試そうとした。
王が外に出たとき、王馬のたてがみを切らせた。
王は帰ってきて言った。
「馬にたてがみがないのは可愛そうだのう」
また、食事のときに熱いスープを王の服にこぼさせたが、王は怒らなかった。

2年(228年)春2月、王は卒本へ行幸して、始祖廟を祭り、大赦を行った。
2年(228年)春3月、于氏を皇太后に封じた。

4年(230年)秋7月、国相の高優婁が逝去したので、于台の明臨於漱を国相に任命した。

8年(234年)、魏が使者を派遣し、我が国との国交を求めた。
8年(234年)秋9月、皇太后の于氏が薨去した。
皇太后は臨終の際に遺言を残した。
「正しい行いを失い、ふたりの王の妻となりました。
地下で国壌王(故国川王)にお会いすることができましょうか。
群臣たちに忍びないという気持ちがあるのなら、国壌王が眠る故国川ではなく、山上王陵の側に葬ってくだされよ」
葬儀は遺言通りに執り行われた。
巫師が故国川王の言葉を告げた。
「昨日、于氏が山上王のところへ行こうとするのを見た。
怒りを抑えられず喧嘩をしてしまった。
おとなげないことをしてしまったと後から後悔した。
民に合わせる顔がないから、おぬし(巫師)が朝廷へ行き、なにかで陵を遮るよう伝えてくれ」
そこで、故国川王の陵墓の前に松を七列にして植えた。

10年(236年)春2月、呉の孫権が胡衛を派遣し、我が国との国交を求めてきた。
王は胡衛を王都に留めておいた。
10年(236年)秋7月、王は胡衛を斬首し、その首を魏に送った。

11年(237年)、魏に祝賀使を派遣した。
この年が景初元年である。

著者注:238年、魏が帯方郡を支配下に置く。

12年(238年)、魏の太傅の司馬宣王が兵を率いて、遼東の地を支配していた公孫淵を討った。
王は主簿や大加を派遣し、1000人の高句麗兵で魏軍を助けた。

著者注:239年、倭女王卑弥呼が帯方郡に遣使する。使者は魏都まで至る。

16年(242年)、王は将軍を派遣して、遼東郡の西安平(中国遼寧省丹東市)を襲撃して討ち破った。

17年(243年)春正月、王子の然弗を皇太子とした。
国内に恩赦を行った。

19年(245年)春3月、東海(日本海)地方の人が美女を献上した。
王は美女を後宮に入れた。

19年(245年)冬10月、出兵して新羅の北辺に侵入した。

20年(246年)秋8月、魏は幽州刺史の毌丘倹を派遣した。
1万の兵で玄莵郡を出発し、高句麗に侵入した。
王は歩兵騎兵合わせて2万の軍を率い、沸流水で迎え撃った。
魏軍に勝ち、3000あまりの首を得た。
その後、梁貊谷(中国遼寧省丹東市)で再戦して勝利し、斬ったり捕らえたりした者は3000あまりにのぼった。
王は諸将に言った。
「魏の大軍が我が国の小軍に勝てないでいる。
毌丘倹は魏の名将というが、その命は朕の掌中にある」
5000の鉄騎兵で魏軍を追撃したが、毌丘倹は方陣をつくって必死に防戦した。
その後、形勢が逆転して高句麗軍は壊滅し、18000余人が戦死した。
王は千余騎の兵とともに、鴨緑原(地名)まで逃げた。

20年(246年)冬10月、毌丘倹は王都の丸都城を陥落させ、高句麗人を殺戮した。
毌丘倹は、将軍の王頎に高句麗王を追走させた。
王は南沃沮へ逃げようとして竹嶺(咸鏡南道)まで来たが、途中で兵が散ってしまい、王の側に残った者はほとんどいなかった。
王が名前を知る者は、東部の密友だけだった。
密友が王に言った。
「追っ手が目の前に迫って来ております。
このままでは脱することもままなりませぬ。
愚臣が死ぬ覚悟で防ぎますので、その間に大王はお逃げくだされ」
密友はしんがりの決死隊を募り、全員で追撃軍を防いだ。
王は脱出に成功し、山や谷に散っていた部隊を集めた。
王は言った。
「密友を助け出した者には、望むだけの褒美を与えよう」
下部の劉屋句が進み出て言った。
「愚臣が行って参りましょう」
劉屋句は戦場でうつ伏せに倒れている密友を見つけ、背負って帰った。
王は自らのふとももに密友の頭をのせた。
しばらくすると、密友が息を吹き返した。
敵に見つからないように間道を回り道して、なんとか南沃沮に着いた。
しかし、魏は追撃をやめなかった。
王は妙案が浮かばず、どうしたらよいかわからなかった。
そのとき、東部の紐由が進み出て言った。
「事態は逼迫しておりますが、無駄死にはなりませぬ。
愚臣に計略がございます。
食べ物と酒を携えて魏の陣中を見舞い、隙を見て敵将を刺し殺しまする。
事がうまく運びましたら、奮撃してご勝利くださいませ」
王は頷いた。
紐由は偽って魏軍に投降して言った。
「我が王は大国の魏に逆らうという罪を犯し、海浜まで逃亡しましたが、もう身を隠す場所もございません。
これから陣前へ出向いて降服し、王の生死は御国におまかせいたします。
その使者として愚臣が遣わされました。
ここに従者の進物として、食べ物と酒を持参いたしました」
魏の将軍は投降を許した。
紐由は食器に小刀を隠して進み出て、小刀を抜いて将軍の胸を突き刺し、自分も死んだ。
魏軍が乱れると、王は三方から襲撃した。
混乱した魏軍は陣形を立て直すことができず、ついに楽浪から撤退した。

王は帰国すると論功行賞を行い、密友と劉屋句を第一とした。
密友には巨谷と青木谷を、劉屋句には鴨緑江の杜訥河原を、領地として与えた。
死んだ紐由には、九使者の爵位を贈り、跡継ぎの多優を大使者に昇格させた。

この戦争で、魏の将軍は粛慎の南境まで進み、戦功記念の文を岩壁に刻んだ。
また、丸都山でも岩壁に『不耐城』の銘を刻んで帰国した。

以前、家臣の得来は、しばしば中国に侵入する王を何度も諫めたが、王は聞く耳を持たなかった。
得来は嘆いて言った。
「王都は中国に襲われ、ヨモギしか生えない不毛の地となるだろう」
そして、断食して死んだ。
その後、丸都城に来た毌丘倹は、軍令を出して得来の墓を守らせた。
また、墓の周りの木を切ることも禁じ、捕らえられていた得来の妻子を解放した。

著者注:247年、倭国が狗奴国と争う。

21年(247年)春2月、魏軍に破壊された丸都城は復旧不可能と判断された。
王は平壌に城を築き、民を宗廟、社稷とともに移した。

22年(248年)春2月、新羅の使者がやってきて国交を求めた。
22年(248年)秋9月、王が薨去した。
柴原(地名)に埋葬し、諡号を東川王とした。
みな王の恩徳を懐かしみ、悲しまない者はいなかった。
殉死を願い出る家臣が多くいたが、嗣王の中川王は礼に合わないとして殉死を禁じた。
しかし、葬儀当日、王陵に来て殉死する者がはなはだ多く、民は柴を刈って遺体を覆った。
そのため、この地は柴原と名付けられた。

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山上王は諱を延優(もしくは位宮)といい、故国川王の弟である。
王は宮(大祖大王)にそっくりだった。
高句麗語で似ていることを位(イ)と言ったので、名前を位宮とした。
故国川王には子がなかったので、延優が王位を継承した。

故国川王が薨去したとき、皇后の于氏は王の崩御を秘密にして公表しなかった。
その夜、于氏は王弟の発歧を訪ねて言った。
「王には跡継ぎがおりませぬ。
そなたが後継者になるのがよいのでは」
発歧は王が薨去したことを知らなかったので、
「天の暦は巡り巡って定められた場所へ戻ります。
王統について軽々しく議論なさってはなりません。
ましてや、ご婦人が夜訪れることが礼儀正しい行いだといえるでしょうか」
と答えた。
皇后は後悔し、その足で延優の邸宅を訪問した。
延優は衣冠を調え、皇后を門で出迎えた。
居間に招きいれ、皇后のために宴席を用意した。
皇后が言った。
「今日、大王がお隠れになりましたが、後を継ぐ王子がおりませぬ。
発歧が年長で後継者となるべきですが、私に異心があると疑い、不遜で無礼な応対でした。
そこで弟のあなたに会いに来たのです」
延優はさらに篤くもてなし、皇后のために自ら小刀を握って肉を切り分けた。
このとき、延優は誤って指先を傷つけてしまったが、それを見た皇后は腰帯を解いて患部に巻いた。
王宮へ帰るとき、皇后が言った。
「すっかり夜が更けてしまい、不慮の事が起こるやもしれませぬ。
王宮まで送っていただけないでしょうか」
延優は従った。
皇后は、延優の手をとって王宮に入った。
翌日の早朝、皇后は、故国川王の遺命だと嘘をつき、群臣に命じて延優を即位させた。

これを聞いた発歧は大いに怒り、王宮を兵で取り囲んで叫んだ。
「兄が死んだら、すぐ下の弟が継ぐ。
それが礼というものだ。
それなのにおまえは、長幼を無視して王位を簒奪した。
これは大罪である。
すみやかに出てきなさい。
出てこなければ妻妾を誅殺する」
延優が門を閉ざして3日たっても、発歧に従う家臣はいなかった。

このままでは自分に禍が降りかかると思った発歧は、妻子を伴って遼東郡へ出奔し、公孫度に面会して言った。
「私は高句麗王男武の同母弟です。
男武には跡継ぎがいなかったのですが、弟の延優が皇后と謀略を巡らし、まんまと即位してしまいました。
これは天倫の義に反する行いです。
どうにも怒りが収まらないので、こうして投降しました。
伏してお願いいたします。
3万の兵をお貸しください。
延優の軍を撃破して、高句麗を平定いたします」
公孫度はその願いを聞き入れた。

延優は弟の罽須を派遣して、防衛に当たらせた。
漢軍が大敗すると、罽須は先頭に立って北へ追いかけた。
発歧は罽須に言った。
「おまえは年老いた兄を殺すというのか」
罽須は、兄弟の情を抑えることができず、発歧を殺さなかった。
罽須は言った。
「確かに国をお譲りにならなかった行為は、義に反します。
しかし、一時の憤懣から祖国を滅ぼそうとするのは、いったいどういう了見です。
寿命を終えたあと、どの面を下げてご先祖様に会うつもりですか」
発歧はこれを聞いて、慙愧の念に耐えられなくなり、裴川(地名)まで逃げて、自分の首を掻っ切って死んだ。
罽須は発歧の死を悲しみ、大声を上げて泣いた。
遺体を仮埋葬してから都へ帰還した。

王は複雑な気持ちで罽須を迎えた。
罽須を宮廷内に招いて宴席を設けたが、家人に対する礼で対応した。
王は詰問した。
「発歧は異国で兵を募り我が国を侵した。
その罪はあまりにも大きすぎる。
おまえは賊軍を討ち破ったが、発歧の懇願を受け入れて殺さなかった。
発歧が自決すると、大いに悲しみ泣き叫んだ。
朕がはなはだ無道であると言いたいのか」
罽須はうな垂れて涙を流しながら答えた。
「愚臣はいま一言だけ申し上げて死にとうございます」
王は「何が言いたいのじゃ」と言った。
罽須は言った。
「皇太后様は先王の遺命により大王を立てられました。
しかし、大王は王位を譲る礼(形式的に即位を数度辞退する儀礼)をされませんでした。
これでは兄弟が共に相親しむ義が行われるはずがございませぬ。
愚臣は大王の美徳を成さんがため、発歧の亡骸を収めて仮埋葬したのでございます。
このことがどうして大王のお怒りにつながるのか、愚臣にはわかりませぬ。
もし大王が発歧の悪行をお忘れになり思いやりの心でご対応なされば、もし大王が兄の礼に則った葬礼を催行なされば、誰が大王のことを義の心が足りない者だと言いましょうか。
愚臣が申し上げたかったことはこれだけにございます。
言い終わったら死ぬと申しましたが、まだ生きております。
どうか役人に引き渡して、愚臣を誅殺してくださりませ」
王はこの話を聞いて、罽須の前に座り直し、温和な表情で慰め諭して言った。
「朕は愚か者でいろいろ惑わされる。
いまおぬしの話を聞いて、己の過ちがよくわかった。
そう責めないでくれ」
罽須は王に拝礼し、王もまた罽須に礼拝した。
互いに喜び合って終わった。

元年(197年)秋9月、役人に命じて発歧の棺を移し、裴嶺(地名)で王の儀礼に則った葬儀を執り行った。
王は于氏のおかげで即位できたので、新たな王妃を娶らず、于氏を皇后に立てた。

2年(198年)春2月、都に丸都城を築いた。

7年(203年)春3月、王には子がなかったので、山川の神々に祈りを捧げる儀式を行った。
満月の夜、天の神が夢に出てきて言った。
「汝の小后(側室)に男児を産ませるから心配する必要はない」
目覚めた王は群臣に言った。
「天の神がこのように語ったのだが、朕には小后がおらぬ。
どうしたらよいだろう」
乙巴素が答えて言った。
「天命は計り知ることができぬもの。
大王にあられましては、ただ天命を待つのみかと存じます」

7年(203年)秋8月、国相の乙巴素が逝去した。
国の者たちはみな泣いて悲しんだ。
王は高優婁を国相に任命した。

12年(208年)冬11月、神へ奉納するための豚が逃げ出した。
担当官は豚を追って酒桶村に至った。
あちこち動き回るので、なかなか捕まえることができなかった。
二十歳くらいの艶やかで美しい娘が、笑いながら進み出て豚を捕まえたので、後からやってきた担当官は豚を得ることができた。
この話を聞いた王は不思議に思い、その娘を見てみたくなった。
お忍びで娘の家に行き、門番に王の到来を告げた。
家の者は王の来訪を知り、拒むことなく招き入れた。
王は家に入ると娘を呼び、側に侍らせようとした。
娘が言った。
「大王のご命令とあらば、あえて避けようとはいたしませぬ。
もし幸運にも子をなしましたならば、どうかお見捨てになられませぬようお願い申し上げます」
王は頷いた。
王は夜更けに目を覚まして王宮へ戻った。

著者注:208年、赤壁の魏が敗れ、三国鼎立の時代に入る。

13年(209年)春3月、皇后は、王が酒桶村の娘を寵愛しているのを知った。
これを妬んだ皇后は、密偵を送りこんで娘を殺そうとした。
この企てを知った娘は、男服を着て逃走した。
追いついた密偵は、娘を殺そうとした。
娘が言った。
「おまえたちはいま私を殺そうとしているが、それは王の命令か、それとも皇后の命令か。
私のおなかには王のお世継ぎがいるのですよ。
私を殺すのはかまわないが、お世継ぎを殺すつもりか」
密偵は殺すのをやめ、皇后のところに戻って娘の話をした。
話を聞いた皇后は怒り、なんとしても娘を亡き者にしようとしたが、なかなか実行できなかった。
王はこの話を聞き、娘の家へ行って尋ねた。
「そなたが懐妊したと聞いたが、誰の子じゃ」
娘が答えて言った。
「私は普段、兄弟とも同席いたしませぬ。
ましてや他家の男子を近づけるようなことがありましょうか。
いまおなかにいる子は、大王のお世継ぎでございます」
王は娘をいたわり気遣い、祝いの品々を山のように贈った。
王宮に戻った王は、皇后に娘の懐妊を告げた。
そのため、皇后は娘を殺すことができなくなった。

13年(209年)秋9月、酒桶村の娘が男児を産んだ。
王は喜んで言った。
「この子は天が朕に授けてくださった世継ぎじゃ。
神に捧げる豚に始まり、子の母を寵愛することで世継ぎを授かった。
この子の名は郊彘にしよう。
子の母は宮中に入れて小后とせよ」
小后の母が妊娠しているとき、巫女が占って言った。
「あなたは王后を産むでしょう」
小后の母は喜んで、娘が産まれると后女と名付けた。

13年(209年)秋9月、王は都を丸都城に移した。

17年(213年)春正月、王は郊彘を皇太子に立てた。

21年(217年)秋8月、平州(中国遼寧省一帯)の夏瑤が1000戸あまりの民を連れて投降して来た。
王は受け入れ、柵城に住まわせた。

著者注:220年、後漢が滅亡し、魏の曹丕が皇帝となる。

28年(224年)、王孫の然弗が産まれた。

31年(227年)夏5月、王が薨去した。
山上(地名)の王陵に埋葬し、諡号を山上王とした。

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故国川王(もしくは故国襄王)は諱を男武(もしくは伊夷謨)といい、新大王伯固の第2子である。
伯固が崩御すると、家臣たちは長男の抜奇を不肖者として退け、次男の男武を共立した。
王は背丈が九尺あり、容姿は英傑そのもので、鼎を軽々と持ち上げるほど力があった。
揉め事は、聴いて即断した。
優しいことも厳しいこともあったが、すべて的を得た裁きだった。

2年(180年)春2月、掾那部の于素の娘である于氏を皇后とした。
2年(180年)秋9月、王は卒本に行幸し、始祖廟を祭った。

著者注:184年、黄巾の乱が起こり、後漢王朝は崩壊に向かっていく。

6年(184年)、後漢の遼東太守が高句麗に攻め込んできた。
王は、王子の罽須を派遣して守りにあたらせたが、防ぎきることができなかった。
王は騎馬の精兵を率いて親征し、坐原で後漢軍と戦い、これを討ち破った。
斬った漢人の首が山積みにされた。

著者注:189年、この頃、倭国で卑弥呼が女王の座についた。

12年(190年)、秋9月、都に雪が六尺も積もった。
中畏大夫で沛者の於畀留と評者の左可慮は、皇后の外戚として国権を欲しいままにした。
その子弟も権力をかさにきて驕り高ぶり、他家の子女を略奪したり、農地や屋敷を奪い取ったりしたため、民は憤り恨んでいた。
これを聞いた王は誅殺しようとしたが、左可慮たちが四掾那(掾那部内の有力4部族)とともに反乱を起こした。

著者注:190年頃から三国時代に入る。

13年(191年)夏4月、左可慮たちは兵を集めて王都を攻めた。
王は畿内の兵馬を集め、反乱軍を平定した。
ついに王令が発布された。
『近頃、官位の昇給は情実によってなされ、人徳によっていない。
民に甚大な影響を与え、王家すら動揺する始末だ。
これはすべて朕の不徳の致すところである。
四部(掾那部以外の高句麗五族)は、在野で賢良な人物を捜して推挙せよ』
四部の者たちはみな、順奴部の晏留を推してきた。
王は晏留を召し出して国政をまかせようとした。
晏留は言った。
「臣下の端くれに過ぎない私は凡庸愚鈍で、国政に参加するような能力は、もとより持ち合わせておりません。
しかし、西鴨緑谷の左勿村にいる乙巴素は、瑠璃明王の大臣を勤めた乙素の孫でございます。
剛毅で知恵があり思慮深い男でございますが、世に認められず畑を耕して日々を送っております。
大王が国をうまく治めようとされるなら、この者がうってつけでございます」
王は使者を出して、辞を低くし丁重な礼をもって乙巴素を迎えた。
王は乙巴素を中畏大夫に任命し、于台の爵位を与えた。
王が言った。
「いま先王の偉業を引き継いで民の上に立っておりますが、徳が薄く才が足りないため、いまだにうまく国を治めることができません。
先生は偉才を隠し草深い村でひっそりと暮らしておられたが、その生活を棄てて都へお越しいただけることになりました。
これは私のためだけではなく、高句麗と国民にとって大変喜ばしいことです。
先生のお教えをたまわりたいのです。
心を尽くして国のために働いていただけないでしょうか」
乙巴素は国のために尽くしたいと思ったが、与えられた職階では権限が十分でなく国を治めるのは困難だと判断した。
そこで、答えて言った。
「愚臣は力量不足で、大王の厳命を遂行するのは難しいかと思います。
大王にあられましては、より賢良なる者をお選びになられ、その者に高職を授けて大業を成し遂げていただきたく存じます」
王は乙巴素の意思を知り、国相に任命して国事にあたらせることにした。
大臣や外戚たちは、乙巴素が新しい国相になったことが気に入らず、さまざまな嫌がらせをした。
そのため王は家臣たちにこう命じた。
「身分の貴賎にかかわらず、国相に従わぬ者は罰する」
乙巴素は王宮を退出し、知人に言った。
「時勢に合わなければ隠棲し、時勢が合えば国に仕えるのが、士としての常道です。
反対勢力が強く時勢に合っていないのは確かですが、いま大王は厚意をもって遇してくださっています。
それなのに、以前のような隠遁生活に戻ってもよいものでしょうか」
悩んだ末、乙巴素は誠心誠意国に仕えることに決めた。
乙巴素は国の方針を明らかにし、賞罰を慎重に行ったので、民はみな安心し、王都の内外で問題が起こることもなかった。

13年(191年)冬10月、王は晏留に言った。
「そなたの一言がなければ、巴素に出会って国政をともに担うことはなかった。
いま業績が上がっているのは、そちの功績によるものじゃ」
王は晏留に大使者の爵位を授けた。

16年冬10月、王は質陽で田猟を行った。
王は道に座って泣いている者を見つけ、どうして泣いているのか尋ねた。
その者は答えた。
「家が貧しく小作人をして母を養っておりますが、今年は不作で手伝う畑がなく、糊口をしのぐ食糧さえ得られない始末です。
そのため泣いておるのでございます」
王が言った。
「朕は民の父母でありながら、民をこのような目に遭わせている。
コレは朕の罪である」
王はすぐに衣食を支給して民を慰めた。
内外の役所に命じ、寡婦、孤児、独り者、老人、病人、貧乏人で自活できない者を救済させた。
また、役人に命じ、毎年3月から7月まで国庫の穀物を家族数に応じて貸し与えて10月に返納させるようにした。
以後毎年施行されたので、都の民も外地の民もみな大喜びした。

19年(197年)、中国に大乱が起こり、戦乱を避けて高句麗に投降してくる漢人がとても多くなった。
この年は後漢の献帝建安2年にあたる。

19年(197年)夏5月、王が薨去した。
故国川に埋葬し、諡号を故国川王とした。

後漢の献帝の建安年間(196〜220年)の初め、兄であるにもかかわらず即位できなかったことを恨んでいた抜奇は、消奴部の加と3万人あまりを率いて、遼東の地を支配していた公孫康に投降した。
このあと、抜奇たちは沸流水の上流に戻って暮らした。

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