実際に見聞きしたことを中心に韓国のウンチク情報を紹介しています。妻が韓国人ならではのディープなネタもあります。

【はじめに】
古漢語の原典をもとに阿伊宇得憶が訳出しています。
初心者が注釈なしで読めるよう、意訳、抄訳しています。
全体の流れと関係ない天災記事や割注などは省略しています。
*翻訳原本:正徳本景印版(東洋文化研究所蔵)
*参考資料:朝鮮史第1編第1巻(朝鮮史編修会本)
        民族文化推進会本(韓国古典叢書)
        井上秀雄訳注三国史記(平凡社東洋文庫)
        完訳三国史記(明石書店)


高句麗の始祖である東明聖王は、姓を高、名を朱蒙(もしくは鄒牟、もしくは衆解)といった。

夫餘(現在の中国吉林省にあった国。紀元前1世紀頃〜494年)王の解夫婁は、老年になっても跡継ぎができず、あるとき、外に祭壇を設けて山川の神々に息子の誕生を祈った。
その帰り道、解夫婁王が乗っていた馬が、鯤淵(地名)で大きな石を見て涙を流した。
王は不思議に思い、家臣に石をどかせるよう命じた。
そこには、蛙のような形をした金色の子供がいた。
王は、
「この子は天が授けてくれた世継ぎに違いない」
と言って喜び、王宮に連れ帰って育てることにし、金蛙と名付けた。
成人後、皇太子とした。

それから、天の啓示があった。
「ここ(夫餘)は私の子孫の国とするから、おまえたちは立ち退きなさい。
東の海に迦葉原という土地がある。
肥沃で五穀がよく実るから、そこを都とするがよい」
この報告を巫師から受けた宰相の阿蘭弗は、解夫婁王に進言して迦葉原へ都を移し、国名を東夫餘とした。

その後、天帝の子を自称する解慕漱という者が、どこからともなく旧都に現れた。

解夫婁王が薨去すると、金蛙が後を継いだ。

ある日、金蛙王は、白頭山の南にある優渤水(地名)で、美しい娘に出会った。
話しかけると、その娘が言った。
「私は河神の娘で柳花と申します。
弟たちと外で遊んでいるとき、ひとりの殿方にお会いました。
殿方は、天帝の子の解慕漱であるとおっしゃられました。
そのあと、熊心山麓を流れる鴨緑江の畔に建つ家で愛し合いました。
しかし、どこかへ行かれたままお戻りになりません。
両親は媒酌人もないまま交わりを持ったと責め、私を優渤水に幽閉してしまいました」

金蛙はこの話を聞いて不思議に思い、娘をその家の中に閉じ込めてみた。
すると、日光が娘を照らした。
娘が移動すると、光は娘を追いかけて照らした。
そうするうちに、娘は身ごもり、五升にもなる大きな卵を産んだ。

金蛙は、卵を犬と豚に与えてみたが、どちらも食べなかった。
道に置くと、牛馬は卵を避けて通った。
野原に捨てると、鳥が翼で覆って温めた。
王自ら割ろうとしたが、どうしても割れなかった。
仕方がないので、柳花に卵を返した。
柳花は、卵を布で包んで暖かい場所へ置いた。
すると、男の子が殻を破って出てきた。
その子は、あらゆる面で優れていた。
7歳のときには異能を発揮し、自分で弓矢を作り、射れば百発百中だった。
弓射上手を夫餘の言葉で朱蒙と言ったので、金蛙王はこの子の名を朱蒙とした。

金蛙王には7人の息子がいて、いつも朱蒙といっしょに遊んでいたが、あらゆる面で朱蒙に及ばなかった。
長男の帯素は、父である王に言った。
「朱蒙は産まれ方が普通ではありません。あれほど勇猛な者は、いまのうちに取り除いておかねば、後の禍となりましょう」
金蛙王は帯素の意見を聞き入れなかったが、そのかわり朱蒙に馬飼いの仕事をさせることにした。

朱蒙は、駿馬には餌を与えず痩せさせ、駄馬には餌をたくさん与えて太らせた。
ある日、帯素たちは野狩りに出て、朱蒙を殺そうとした。
弓射に優れているということで、朱蒙は矢を少ししか与えられなかったが、誰よりも多くの獲物を射殺し、王子たちの陰謀は失敗に終わった。

その後、王子や家臣が、再び朱蒙の暗殺を謀った。
柳花がこの陰謀を事前に察知し、息子の朱蒙に知らせた。
「夫餘人がそなたを亡き者にしようとしています。
そなたほどの才覚があれば、どこへ行っても暮らしてゆけるはずです。
夫餘に留まって辱めを受けるより、遠いところへ行って生きたほうがよいのではないですか」

朱蒙は、烏伊、摩離、陝父の3人を連れて出奔した。
淹膺紂奮緑江の東北にある支流)まで来たが、橋が架かっておらず渡れなかった。
追っ手を恐れた朱蒙は、川に向かって叫んだ。
「私は天帝の子で、河神の子孫である。
いま逃げてきが、追っ手がすぐそこまで来ている。
どうしたらよいか」
すると、魚やスッポンが浮き上がってきて川面に橋を架けた。
朱蒙たちはこの橋を渡った。
4人が渡り終えると橋は消え、追っ手の騎馬兵は渡河できなかった。

朱蒙たちは、毛屯谷(渾江支流の渓谷)で3人の男に出会った。
ひとりは麻衣をまとい、ひとりは僧衣をまとい、ひとりは藻衣をまとっていた。
朱蒙は尋ねた。
「そなたたちはどこの者で、姓と名は何と申す」
麻衣(儒教)の人物は答えた。
「再思と申します」
僧衣(仏教)の人物は答えた。
「武骨と申します」
藻衣(道教)の人物は答えた。
「黙居と申します」
3人が姓を名乗らなかったので、再思には克、武骨には仲室、黙居には少室という姓を与えた。
そして、朱蒙は6人に向かって
「我は天命を受け、国を建てようとしている。
ここで3人の賢者を得たのは、天からの賜物である」
と言って、各人にふさわしい仕事を分け与えた。

朱蒙たちは、卒本川(中国遼寧省丹東市)に着いた。
土地が肥えていて、地形が険しく守りやすいので、ここに都を置くことに決めた。
しかし、宮城を造る時間がなかったので、沸流川(渾江)の畔に庵をあんだ。
国号を高句麗とし、姓を高氏とした。
朱蒙は22歳。前漢の孝元帝建昭2年(B.C.37年)、新羅の始祖赫居世21年だった。

高句麗の建国を聞き、服属する小国がたくさんあった。
高句麗が都を置いた土地は、靺鞨(中国吉林省一帯に居住していたツングース系諸族)と隣接していた。
侵入や略奪を防ぐため、靺鞨を討伐した。
靺鞨は高句麗を恐れて、その領域を侵すことがなかった。

朱蒙王が沸流川を眺めていると、菜っ葉が流れてきた。
上流に人が住んでいることを知った朱蒙は、狩りをしながら川をさかのぼり、沸流国(高句麗五族のひとつである沸流部)にたどり着いた。
国王の松譲が出てきて言った。
「私は辺鄙な海辺に住んでいるため、いままで君子に謁見したことがありません。
今日、あなたにお目にかかることができて幸せでございます。
ところで、あなた様がいずこからおいでになったのか、まだ伺っておりませんが」
朱蒙は答えた。
「我は天帝の子で、あるところに都を置きました」
松譲は言った。
「私は先祖代々の国王です。
土地が狭く、ふたりの王が並び立つことはとうてい無理です。
あなたは即位して日が浅いようですから、私の下についてはいかがでしょう」
その言葉に腹を立てた朱蒙は、勝負して決着をつけることにした。
弁術でも武芸でも、松譲は朱蒙に遠く及ばなかった。

2年(B.C.36年)夏6月、松譲は朱蒙に降参した。
朱蒙は松譲を領主に任命し、領地名を多勿都とした。

4年(B.C.34年)秋7月、築城して宮殿を設けた。

4年(B.C.34年)冬10月、白頭山東南の除鱒l国を討伐して城邑を築いた。

10年(B.C.28年)冬11月、北沃沮(咸鏡北道)を討伐して城邑を築いた。

14年(B.C.24年)秋8月、柳花が東夫餘で逝去した。
金蛙王は、皇后の礼で葬儀を執り行い神廟を建てた。

19年(B.C.19年)夏4月、王子の類利が母親といっしょに夫餘から逃げてきた。
朱蒙は喜び、類利を皇太子とした。

19年(B.C.19年)秋9月、朱蒙王が40歳で薨去した。龍山に葬り、諡号(おくり名)を東明聖王とした。

*原典の説明はコチラ!

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即位した瑠璃明王の諱は類利(もしくは孺留)、始祖王朱蒙の長子で、母は礼氏といった。
朱蒙が夫餘にいたときに結婚して懐妊したが、産まれたのは朱蒙が夫餘を出立した後だった。

幼い頃の類利は、よく出歩いて遊んでいた。
ある日、道で雀を撃って遊んでいたところ、婦人が抱えていた水瓶に玉があたり、水瓶が粉々に砕けてしまった。
婦人は類利を罵って言った。
「この子は父親がいないから、こんななんだわ」
恥ずかしく思った類李は家に帰って母親に尋ねた。
「私の父は誰で、いまどこにいるのですか
母は答えた。
「そなたの父は尋常成らざる者です。
そのため、国に留まることが許されず、南の地で王となられました。
『男の子が産まれたら、我が息子に伝えておくれ。七稜石の松の下にある物を残しておく。首尾よくそれを探し出すことができたらわが子である』
そなたの父はこうおっしゃって出国されました」
類李は野山を駆けずりまわって探したが、見つけることができず、疲れ果てて家に戻った。
家に上がると、柱と礎石の間から音が聞えてきた。
音がする場所を見ると、その礎石が七稜石であった。
柱の下を探すと折れた剣の片方が出てきた。
さっそく、家来の屋智、句鄒、都祖とともに卒本へ行き、王に折れた剣を差し出した。
王は自分が保管していた剣と合わせた。
すると、寸分違わずに合わさって1本の剣になった。
王はおおいに喜び、類利を皇太子とし、王位を継がせることにした。

2年(B.C.18年)秋7月、多勿侯松譲の娘を王妃とした。

2年(B.C.18年)冬10月、百済の始祖である温祚王が即位した。

3年(B.C.17年)冬10月、王妃の松氏が死去した。
瑠璃明王は、鶻川国出身の禾姫と前漢出身の雉姫を側室とした。
しかし、ふたりは王の寵愛を争って喧嘩ばかりしていた。
そこで、王は涼谷に東宮と西宮を造営した。
田猟(神への捧げ物を捕るための狩猟で一種の宗教行事)のため、王は箕山へ出かけ、7日間城を留守にした。
このとき、ふたりはまた言い争った。
禾姫が言った。
「もとは漢人の召使いのくせに、あなたはどうしてそんなに非礼なの」
これを聞いた雉姫は、恥じて実家に帰ってしまった。
帰城してこのことを知った王は、馬を跳ばして雉姫を追いかけた。
しかし、怒った雉姫は帰って来なかった。
王が木下で溜息をついていると、朝鮮うぐいすが空を飛び交っていた。
王はそれを見て詩を詠んだ。

すいすい飛んでいるうぐいすたち
雄と雌が相寄り添って飛んでいる
自分の孤独を想わずにはいられない
誰といっしょに帰ればいいのだ

11年(B.C.9年)夏4月、王は群臣に言った。
「鮮卑族は、領土が険峻なのを頼みにして、我が国と和を結ぼうとしない。
利ありとみれば我が国へ侵入し、不利となれば墨守して出てこない。
国患とはまさにこのことじゃ。
この憂いを取り除いてくれた者には、望みの褒美を与えようぞ」
このとき、扶芬奴が王の面前に進み出て言った。
「鮮卑は守るに固い国でございます。
ただ、鮮卑人は勇猛ですが、愚か者ばかりです。
力で屈服させることは困難でしょうが、計略をもってすれば容易かと存じます」
これを聞いた王は尋ねた。
「ならば、どのようにすればよいのだ」
扶芬奴は答えた。
「鮮卑国へ密偵を送り込み『高句麗は小国で弱兵ばかりだから怯えて兵を動かすこともできない』という噂を流しましょう。
さすれば、鮮卑は油断して備えが疎かになるはずでございます。
私は精兵とともに鮮卑へ侵入し城外の森に潜んでおります。
王は弱兵を率いて敵城の南面にお進みください。
鮮卑軍はここぞとばかりに城を出て追いかけることでしょう。
その隙を狙って私が城を占拠いたします。
私が城を奪ったら、騎馬兵と合流して引き返し、敵軍を挟み撃ちにしてくださいませ」
瑠璃明王は、この作戦を支持した。
果たして、そのとおりに事は進んだ。
扶芬奴は、城門で立ち塞がって戦い、多くの敵軍を斬り捨てた。
王軍は旗を立て軍太鼓を打ちながら進軍した。
前後を取られた鮮卑軍は降伏して、鮮卑は高句麗の属領となった。
王は扶芬奴功績を讃え、領地を与えようとしたが、
「このたびの戦勝は王様の人徳によるものでございます。私になど何の功績もございません」
と言って固辞したので、王は黄金30斤と駿馬10匹を扶芬奴に下賜した。

14年(B.C.6年)春正月、夫餘の帯素王が、人質の交換を希望した。
王は夫餘が強国であることをおもんぱかり、皇太子の都切を送った。
しかし、都切は恐れて夫餘へ入国せず、夫餘王激怒させた。

14年(B.C.6年)冬11月、夫餘が5万の兵で攻めて来たが、大雪のために大量の死者が出て引き上げた。

20年(1年)春正月、皇太子の都切が逝去した。

21年(2年)春3月、神に捧げるための豚が逃げた。
王は、担当者の薛支に探し出すよう命じた。
尉那厳(中国吉林省集安市)まで追いかけてやっと見つけたが、豚はその土地の者に飼われていた。
帰国した薛支はこう報告した。
「私は豚を追って尉那厳まで行ってまいりました。
そこは山水深険で、五穀がよく実り、獣や魚も豊かなところでございます。
そこへ都を移せば、民のためになるばかりでなく、外患の憂いも取り除くことができます」

21年(2年)秋9月、王は尉那厳に行って地勢を確かめた。
沙勿沢(地名)まで戻ると、男が沢の石に座っていた。
男は王の家臣になることを望んだ。
王は喜んで許し、位の氏と、沙勿という名を与えた。

22年(3年)冬10月、国内(中国吉林省集安市)に遷都し、尉那厳城を造営した。

22年(3年)冬12月、王は質山へ田猟に出掛け、5日間戻らなかった。
宰相の陜父が諫めて言った。
「都を移してから日が浅いため、民はまだ落ち着いておりません。
政に専念しなければならない時期にもかかわらず、王様は田猟に出掛けたまま久しくお戻りになりません。
王様が心を入れ替えて民のために働かねば、政が疎かになって民が離れ、先王の業績が地に落ちてしまいます」
これを聞いて激怒した王は、宰相の職を解き、官園の管理を命じた。
怒った陜父は高句麗を去り、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)の地に去った。

23年(4年)春2月、解明を皇太子とし、大赦を行った。

著者注:西暦8年、前漢が滅亡し、王莽が新王朝(8〜23年)を興した。

27年(8年)春正月、解明は旧都の卒本で暮らしていた。
武勇に優れ、力自慢だった。
黄龍国(中国遼寧省朝陽)の王がこの噂を聞き、強靭な弓を贈った。
しかし解明は、使者の面前で弓を引き絞って折った挙句、
「おれに力があるのではなく、この弓が弱すぎるのだ」
と言い放った。
黄龍王は、解明に弓を贈った自分を恥じた。
この話を聞いた瑠璃明王は『あやつは不孝の息子です。どうか誅殺してください』という内容の書簡を黄龍王に送った。

27年(8年)春3月、黄龍王は使者を送り、解明との面会を求めた。
解明が行こうとすると、家臣が諫めて言った。
「ただ会いたいという隣国の意図がつかめませぬ」
「天がおれを殺すつもりがないなら、黄龍で死ぬことはないだろう」
と言って、解明は黄龍国へ赴いた。
解明を殺そうと思っていた黄龍王だったが、実際に会って気が変わり、篤く持て成して送り届けた。

28年(8年)春3月、王は使者に解明宛ての親書を届けさせた。
「遷都して国家の基礎を固めているときに、おまえは私に従うどころか、力を頼りにして隣国から恨みを買う始末だ。
剣を与えるから、それで自決せよ」
解明は父の言葉に従って死のうとしたが、家臣が諫めて言った。
「王の嫡男はすでにお亡くなりになっており、跡継ぎは太子様しかおられません。
まだ、使者が伝えに来ただけでございます。
これが本当に大王の本心なのか、はっきりしておりませぬ」
「黄龍王が先に強弓を贈ってよこした。
だから、おれは黄龍国が我が国を見くびることを恐れ、あえて弓を折って返事としたのだ。
ところが、父王はおれを一方的に責め、不孝の息子は剣で自決しろという。
どうして父の命に抗うことができようか」
そう答えた解明は、礪津東原(地名)へ行き、槍を地面に突き刺すと、走っている馬から飛び込んで、槍に貫かれて死んだ。
享年21歳だった。
葬儀は礪津東原で行われ、廟が建立された。
それから、この地は槍原と呼ばれるようになった。

28年(8年)秋8月、夫餘の帯素王が高句麗へ使者を遣わし、瑠璃明王をなじって言った。
「先王(金蛙)と東明聖王は相通じるものがあった。
しかし、我が国の家臣を誘ってそこへ逃れ、人を集めて国をつくった。
国には大小があり、人には長幼がある。
小者が大者に礼を尽くし、幼者が長者に従うのは世の道理である。
いま王(瑠璃明王)が私(帯素)に礼を尽くして従うならば、天は必ずや王を助け、高句麗国は繁栄することであろう。
もし従わないなら、先祖を祭り続けることもできまい」
親書を読んだ王は言った。
「建国間もない今は、兵が弱く勝ち目などないから、恥を忍んで夫餘に従い、後世に恥辱をそそいでもらおう」
家臣と相談した上で、夫餘の使者に伝えた。
「わたしどもは遠い海の片隅で暮らしており礼儀を知りません。
大王(夫餘王)の教えはしかと承りました
いまは大王の命にただただ従うばかりでございます」
それを伝え聞いた王子の無恤は、まだ幼少の身であったが、夫餘の使者に会い、
「先王(朱蒙)は神霊の子孫で賢く多才であったのに、大王(帯素)がその才を妬み、金蛙王に讒言して馬飼いにしたのです。
そのため、先王は夫餘にいられず、仕方なく出奔したのです。
大王は省みることもなく、兵の多いことのみを頼りにして、我が国を軽蔑しています。
国に戻ったら、大王に次のように伝えてください。
『ここに累卵があります。大王が累卵を割らなければ、我々は喜んで大王にお仕えしましょう』」
と言った。
夫餘王は累卵の意味がわからず、国中の者に尋ねた。
すると、ひとりの老婆が説明した。
「累卵とは危険のことですじゃ。
それを割らないいうんは、安泰を意味しますじゃ。
『大王は自国が危うい状態なのにも気付かず、他国が従属するのを望んでおられる。国と国の関係が安泰ならば、当然のことながら、危険な状況など起こりえません』
高句麗の王子は、そう言いたかったのではないですかいのう」

29年(10年)夏6月、矛川(地名)の畔で、黒蛙(夫餘)と赤蛙(高句麗)が
戦って、黒蛙が死んだ。
29年(10年)秋7月、豆谷(地名)に離宮を造営した。

31年(12年)、新の王莽は匈奴を討つため、高句麗に出兵を命じた。
しかし、高句麗は新の軍令に従わないどころか、新が統治している郡を荒らしまわった。
遼西郡(中国河北省北部)の長官であった田譚は、高句麗を討伐しようとしたが、逆に殺されてしまった。
新の地方官僚は、高句麗に叛乱の罪を着せようとしたが、新の大臣厳尤は次のように上奏した。
『いま高句麗を責めれば、高句麗人は反抗するでしょう。そうすれば夫餘も同調します。匈奴にも勝てない状況で、夫餘や獩貊(中国吉林省に住んでいたツングース系民族)が背いたら、手立てがありません』
しかし、王莽は聞き入れず、厳尤に高句麗討伐を命じた。
厳尤は高句麗将軍の延丕を誘き出して殺害し、その首を都の長安(中国陝西省西安)に送った。
王莽は大いに喜んだ。
そして、高句麗王を『高句麗侯』から『下句麗侯』にして国中に周知徹底させた。
屈辱を受けた高句麗は、新の辺境地域をますます荒らした。

32年(13年)冬11月、夫餘が侵入してきた。
無恤が防衛にあたったが、正面から戦っても勝てないと思い計略を練った。
無恤は鶴盤嶺(地名)の山谷に高句麗兵を潜ませておき、夫餘軍が鶴盤嶺の麓に来たところで、不意をついて奇襲した。
夫餘の兵たちは馬を捨てて山へ逃げたが、高句麗兵に壊滅させられた。

33年(14年)春正月、瑠璃明王は、無恤を皇太子とし、国事と軍事を任せた。
33年(14年)秋8月、王は烏伊と摩離(ふたりとも朱蒙とともに夫餘を離脱した旧臣)に2万の兵を与え、梁貊国(玄莵郡所属の一郡)を滅亡させ、さらに軍を進めて高句麗県(玄莵郡所属の一郡)を奪った。

37年(18年)夏4月、王子のひとりが船着場で溺死した。
王は大変悲しんだ。
遺体を捜したが見つけることができなかった。
のちに、沸流(部族名)の祭須という者が亡骸を見つけて通報した。
遺骨は儀礼に則って王骨嶺(地名)に葬られた。
祭須には金10斤と田10頃が与えられた。

37年(18年)秋7月、瑠璃明王が豆谷に行幸した。
37年(18年)冬10月、瑠璃明王が豆谷離宮で薨去した。
遺体は豆谷の東原に埋葬され、諡号を瑠璃明王とした。


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大武神王(大解朱留王)は、諱を無恤といい、第2代瑠璃明王の第3子だった。
生まれつき聡明で、成長して雄傑、国家の大計も有していた。
瑠璃明王33年、皇太子となったが、同年に瑠璃明王が薨去したため、わずか11歳で即位することになった。
母は松氏、多勿国王松譲の子女である。

2年(19年)春正月、百済の農民千余戸が移ってきた。

3年(20年)春3月、始祖東明聖王の廟を建立した。

3年(20年)秋9月、王は骨句川で田猟し、神馬を捕まえた。

3年(20年)冬10月、赤いカラスを捕まえた夫餘人が夫餘王帯素に献上したところ、
「もともと黒いはずのカラスが赤色で胴がふたつでございます。
これは我が国が高句麗を併合してひとつの国になる兆候と思われます」
と、ある家臣が進言した。
喜んだ夫餘王は、高句麗へ使者を出し、家臣の進言内容をしたためた親書とともに赤カラスを贈った。
大武神王は家臣と相談して、こう返事した。
「北方を象徴する色である黒が、南方を示す赤に変わりました。
また、赤カラスは瑞兆の表象でもあります。
そんな鳥をわざわざ手放したのですから、両国の関係はこれからどうなるかわかりません」
返書を読んだ帯素は、高句麗の意外な反応に驚き、そして悔しがった。

4年(21年)冬12月、大武神王は、夫餘を討つため出兵し、沸流水(渾江)に陣を張った。
王が川辺を見ると、少女が鼎(煮炊き用の三足器)で遊んでいた。
近寄ってみると、青銅製の大鼎だけが置かれていた。
不思議なことに、この鼎に材料を入れると、火を使わずに煮炊きできた。
兵士全員の食事を一度に作ることができた。
そのとき、男が突然現れて言った。
「その鼎は我が家の家宝だったのですが、妹が失くしてしまったのでございます。
しかし、いまは大王のもの。
その鼎を背負って従軍させていただけないでしょうか」
王は参軍を許し、負鼎の氏を授けた。
しばらくして、利勿林(地名)で宿営したところ、夜中に金物を叩く音がした。
夜明けに音の出所を探すと、金印と鉄剣が出てきた。
大武神王は「これらは天からの授かり物(青銅・金・鉄は北方騎馬民族の三種の神器)である」と宣言した。

進軍途中、顔面蒼白で目が鋭く輝いている九尺丈の男が、王の前に現れて言った。
「私は北溟(地名)の者で、怪由と申します。
大王はこれから夫餘を討伐するとうかがいました。
どうか私に夫餘王の首を切らせてください」
王は喜んで許した。
また、別の男が現れて言った。
「私は赤谷(地名)の者で、麻盧と申します。
この長矛で先導させてくださいませ」
王はまたこれを許した。

5年(22年)春2月、王の軍は夫餘の南まで進んだ。
湿地が広がっていたので、固い土地を選んで宿営した。
馬から鞍を下ろし、兵士たちはゆっくり休んだ。
それを知った夫餘王は、全軍に出撃命令を出し、高句麗軍を急襲させた。
しかし、軍馬が湿地にはまり、身動きがとれなくなってしまった。
これを見た大武神王は、怪由に指示を出した。
怪由は雄叫びを上げながら剣を振り上げて夫餘王に襲いかかった。
あまりの迫力に、王をかばう者はいなかった。
夫餘王を捕まえた怪由は、剣で王の首を斬り落とした。
王を失った夫餘軍は、くずれかけた軍勢をなんとか建て直し、高句麗軍を幾重にも包囲した。
食料が尽き兵士が飢えはじめたが、王に妙案は浮かばなかった。
そこで、王は天に祈りを捧げた。
すると、一帯が濃霧に覆われ、それが7日間続いた。
王は草人形を作らせ、それに武器を持たせて兵営の内外に立たせた。
高句麗軍は、闇夜の間道を通って撤退することに成功した。
しかし、骨句川の神馬や沸流水の大鼎を失ってしまった。
利勿林まで逃げたが、兵たちは飢えのために進めなくなってしまった。
ここで獣を捕まえて腹を満たし、なんとか帰還することができた。
先に帰国した王は群臣を集め、宗廟で帰還を神に感謝する儀式を執り行い、その場でこう言った。
「軽々しく夫餘を討とうとしたのは、朕の不徳の致すところである。
夫餘王の首をとったとはいえ、夫餘国はまだ滅んでいないし、多くの兵士と軍事物資を失ってしまった。
これは朕の過ちである」
王が戦死者をあつく弔い、自ら負傷者を慰問したため、人臣は王の徳を慕い、国に命を捧げる覚悟をした。

5年(22年)春3月、骨句川神馬が、夫餘の馬100匹を連れて車廻谷に戻ってきた。

5年(22年)夏4月、帯素の弟が曷思(地名)の川の近くで建国し、曷思王を名乗った。
この王は金蛙王の末子だが、名は伝えられていない。

5年(22年)秋7月、夫餘王の従兄弟が、
「先王は自らを滅ぼしただけでなく国も滅ぼしてしまいました。
民は依るところがありません。
弟は逃亡して曷思で国をつくってしまいました。
わたしのようは不肖者には、夫餘を復興させることも、民を養うこともできません」
と言って、万余人を引き連れて高句麗に投降してきた。
大武神王は王の称号を与え、掾那部(高句麗五部のひとつ)の所属とした。
背中に絡み紋様があったので絡という氏を与えた。

5年(22年)冬10月、怪由が病没した。
王が病床を見舞ったとき、怪由は言った。
「北溟出身で卑しい身分のわたくしをお取り立ていただいたご恩は、死んだ後も忘れません」
王はその言葉を聞いて頷いた。
王の命によって、怪由は北溟山の南に葬られ、季節ごとに祭られた。

著者注:西暦23年、王莽の新王朝が滅亡する。
     西暦25年、光武帝が即位し、後漢王朝(25〜220年)が始まる。


8年(25年)春2月、乙豆智を右大臣に任命し、国政と軍事を任せた。

9年(26年)冬10月、大武神王は、蓋馬国(鴨緑江上流域にあった小国)に親征した。
蓋馬王は殺されたが、民は奴隷にされることも私財を没収されることもなく、ただその地が高句麗の郡県に組み込まれた
9年(26年)冬12月、蓋馬国が滅ぼされたのを聞いた句茶国王は、国ごと投降してきた。
こうして王は領土を広げていった。

10年(27年)春正月、乙豆智を左大臣に昇格させ、松屋句を右大臣に任命した。

11年(28年)秋7月、後漢の遼東郡太守軍が高句麗を攻めた。
大武神王は家臣を集めて軍議を開き、野戦か籠城かを尋ねた。
松屋句が答えて言った。
「徳に頼る者は栄え、力に頼る者は滅ぶと申します。
漢は不作で収穫が減っている上、新皇帝が即位したばかりで内乱状態です。
このようなときに討って出るのは理にかないませぬ。
今回の来襲は、漢政府の命令であるはずがなく、遼東将軍が勝手に軍を動かしたものに違いありませぬ。
天に逆らうような兵が、軍功を挙げられるはずがありませぬ。
険峻な場所で墨守し、しかるのちに奇襲すれば、勝利間違いないでございます」
左大臣の乙豆智が進言した。
「『小敵の強がりは大敵の虜になる』と申します。
漢軍に比して我が軍は、あまりにも少数。
ここは計略を用いて応ずるべきで、力に頼るべきではありませぬ」
王は乙豆智に尋ねた。
「それでは、いったいどのような計略を用いるのだ」
乙豆智は答えた。
「いまの漢軍は勢いがあり、我が軍が勝てるとは思えませぬ。
城門を閉ざして籠城し、漢軍が疲弊するのを待って討って出るのがよろしいかと存じます」
王は乙豆智の意見に従った。

高句麗軍は尉那巌城に数十日間立て籠もったが、後漢軍は包囲を解かなかった。
兵が疲れて倒れそうになっているのを見た王は、乙豆智に尋ねた。
「このままでは守り通すことができそうもない。
どうすればよいか」
乙豆智は答えた。
「ここは岩山のため、漢は城内に井戸がないと考え、包囲して我が軍が疲弊するのを待っております。
池の鯉を水草で包んで美酒とともに贈り届け、漢軍をねぎらってはいかがでしょう」
王は、漢軍に書簡を送って言った。
「愚者は大漢の罪を得て、百万の御軍に囲まれております。
この地で風雨にさらされておられます御軍に厚意を示すため、つまらぬもの物ではございますが、新鮮な鯉と酒を届けさせていただきます」
贈り物を見た遼東郡の将軍は、城内に水源があって落城にはまだ時間がかかると判断した。
そして、次のような返書を高句麗王に送った。
「貴国を糾弾するため、大漢皇帝が私を派遣いたしました。
国境に至ること10日余りで、貴殿の親書を受け取りました。
拝読したところ、恭順の意を示しているようです。
皇帝にそのまま報告させていただきます」
そして、漢軍は引き上げていった。

13年(30年)秋7月、買溝谷(地名)の尚須が、弟の尉須、家来の于刀といっしょに投降してきた。

15年(32年)春3月、大臣の仇都、逸苟、焚求の官位を取り上げて平民に落とした。
3人は沸流部(高句麗五部のひとつ)の部族長だったが、卑劣なまでに強欲で、他人の妻や妾、牛馬、財貨を平気で奪い、逆らう者には鞭を使ったので、民はひどく恨んでいた。
王は3人を死刑にしようと思ったが、東明聖王以来の旧臣であったので、この程度の措置で我慢した。
王は、南部(高句麗五部のひとつ)の下級貴族だった鄒ボツ(孛+攵)素を、沸流部の部長に任命した。
鄒ボツ素は庁舎を新築し、そこで政務を執った。
仇都たち罪人を庁舎に入れなかったので、仇都等3人は外出中の鄒ボツ素の前に出て言った。
「王法を犯してしまいましたこと、慙愧の念に耐えません。以前の罪をお許しいただき、更生の機会をお与えいただけるのであれば、死んでも恨みはございません」
話を聞いた鄒ボツ素は、3人を官舎に招き入れ、いっしょに座って言った。
「人は過ちを犯すもの。
それを悔い改めるなら、それに勝る善行はありません」
鄒ボツ素は3人の友人となり、以後3人が悪行に及ぶことはなかった。
王はこの話を聞き、
「鄒ボツ素は、官位の威厳に頼らず、知恵で悪者を更生させた。
まことに有能な人物である」
と言って褒め、鄒ボツ素に大室の姓を与えた。

15年(32年)夏4月、高句麗王子の好童が沃祖(咸鏡南道にあった国)を訪れた。
楽浪国の崔理王は沃祖に行き、好童に会って言った。
「あなたは非凡な顔相を持っています。北国の神王の子ではありませんか」
崔理王は好童を連れて帰国し、娘に引き合わせた。
楽浪国には不思議な太鼓と角笛があった。
敵が来ると、ひとりでに鳴り出して急を知らせた。
高句麗に戻った好童は、崔理王の娘に密書を送って言った。
「武器庫の太鼓と角笛を壊せば、そなたを正妻として迎えよう」
好童を愛していた娘は、太鼓と角笛を刀で切り裂き、好童に知らせた。
好童は楽浪国を攻めるよう王に進言した。
高句麗軍は楽浪国へ向かった。
太鼓と角笛が鳴らないので、楽浪国は軍備を整えなかった。
高句麗は、やすやすと城下に軍を進めることができた。
崔理王は太鼓と角笛が壊されていることを知り、娘を殺した。
もはやこれまでと観念した崔理王は、城門を開いて降伏した。

15年(32年)冬11月、好童が自ら命を絶った。
好童は、曷思王の孫娘にあたる次妃から産まれた。
王は、その容姿端麗なことを愛し、好童と名付けた。
我が子が皇太子になれないことを心配した王妃は、
「好童は私への態度が不遜です。
謀反を起こそうとしているに違いありません」
と、王に讒言した。
これを聞いた王は答えた。
「そなたは他人が産んだ子だから、それほど憎むのであろう」
王妃は王が自分の言葉を信じていないことを知り、のちのち禍になることを心配した。
「お待ちください。
申し上げたことが嘘であれば、自ら罰を受ける覚悟でございます」
と言いながら号泣した。
王は好童のほうを疑い、罰することとした。
ある家臣が好童に言った。
「王子様はどうして王に釈明なさらないのですか」
「私が無実を訴えれば、王妃の悪が明らかとなり、父王の憂いが増えることになる。
これが孝と言えるだろうか」
好童はこう答え、逆さに立てた剣に体を被せて自決した。

15年(32年)冬12月、王子の解憂を皇太子に立てた。
後漢の建武8年(32年)、高句麗が後漢に朝貢した。
後漢の光武帝は、新の王莽が『侯』に格下げした高句麗の位を『王』に戻した。

20年(37年)、王は楽浪国を襲撃して滅亡させた。

27年(44年)秋9月、後漢の光武帝が軍を派遣した。海を渡った後漢軍は楽浪を討伐し、その地を後漢の郡県とした。
こうして、薩水(清川江)より南の地が後漢に属すこととなった。

27年(44年)冬10月、王が薨去した。
大獣村原(地名)に埋葬し、諡号を大武神王とした。


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閔中王の諱は解色朱といい、大武神の王弟である。
大武神王の崩御時、皇太子が幼少で政務を執ることができなかったので、国人に推戴されて高句麗王となった。

元年(44年)冬11月、即位の大赦を行った。

2年(45年)春3月、群臣と宴会を開いた。

2年(45年)夏5月、国の東が洪水にみまわれて食料が不足したので、倉庫を開いて食糧を配給した。

4年(47年)夏4月、王は閔中原(地名)に田猟した。

4年(47年)秋7月、王は再び閔中原に田猟し、石窟を見て近習の者に言った。
「朕が死んだら、ここに埋葬せよ。
他所に陵墓を造ってはならぬ」

4年(47年)秋9月、東地方人の高朱利が王に鯨の目を献上した。
鯨の目は夜も光っていた。

4年(47年)冬10月、蚕友部に属する大加の戴升たち1万余人が、後漢の楽浪郡に投降した。

5年(48年)、王が薨去した。
遺言どおり閔中原の洞窟に埋葬し、諡号を閔中王とした。


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慕本王の諱は解憂(もしくは解愛婁)といい、大武神王の嫡男である。
閔中王の崩御により王位を継いだが、粗暴で思いやりがなく、国事を疎かにしたので、民はみな王を恨んだ。

元年(48年)冬10月、王子の翊を皇太子に立てた。

2年(49年)春、王は将軍に命じて、後漢の北平(中国河北省北東部にあった郡)、漁陽(中国北京市北部にあった郡)、上谷(中国河北省北西部にあった郡)、太原(中国山西省太原市にあった郡)を攻撃させた。
遼東太守の祭彤が恩義と信義を持って対応したため、両国の関係は元に戻った。

4年(51年)、暴君と化した王は、人の上に座り人を枕にして眠った。
このときに動揺を見せた者は、謀反者として容赦なく斬り捨てられた。
忠告する家臣は、弓で射殺された。

6年(53年)冬11月、側近の杜魯が王を殺した。
杜魯は慕本人である。
いつ王に殺されるか心配で泣いていた杜魯に、ある者が言った。
「勇敢な君がなぜ泣いているのか。
昔の人も『優しくしてくれる人が王であり、虐げる人は仇である』と言っている。
どうすればいいかは自ずとわかるだろう」
杜魯は、短刀を隠し持って王の前に進み出た。
王がいつものように杜魯の上に座ったところで、懐から短刀を出して王を刺した。
王は慕本原(地名)に埋葬され、諡号を慕本王とした。

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大祖大王(国祖王とも呼ばれる)の諱は宮で、幼名を於漱といった。
古鄒加(10等中第6の官位)再思は、第2代瑠璃明王の子であったが、その再思の子が大祖大王である。
母は夫餘人であった。
慕本王の崩御後、無能な皇太子には国政を任せられないとの声が上がり、家臣団が協議して宮を高句麗王に推挙した。
大祖大王は産まれたときに目が見え、幼い頃からあらゆる面に秀でていた。
しかし、7歳で即位したため、実母が摂政となった。

3年(55年)春2月、後漢の遼西郡(中国河北省北部)に10の城を築き、後漢軍の侵攻に備えた。

4年(56年)秋7月、東沃祖を攻めて高句麗の領土とした。
これにより、東境は滄海(日本海)、南境は薩水になった。

著者注:西暦57年、倭の奴国が後漢に朝貢し、光武帝から金印(志賀島から出土したもの)を下賜された。

16年(68年)秋8月、曷思王の孫の都頭が国ごと投降してきたので、王は都頭に于台(10等中第6の官位)を与えた。

20年(72年)春2月、王命により、貫那部(高句麗五族のひとつ)出身の沛者(10等中第3の官位)達賈が藻那国(場所は不明)を攻めて、藻那国王を捕虜にした。

22年(74年)春2月、王命により、桓那部(高句麗五族に準ずる部族)出身の沛者(10等中第3の官位)薛儒が朱那国(場所は不明)を攻めて、王子の乙音を捕虜にし、乙音に古鄒加を授けた。

25年(77年)冬10月、夫餘国の使者が、三本角の鹿と尾の長い兎を、贈り物として持ってきた。
王は瑞祥物だと言って喜び、大赦を行った。

46年(98年)春3月、王は東の柵城(中国吉林省琿春市)地方を行幸し、柵城の西にある罽山(地名)で白鹿を捕らえた。
柵城に着いた王は、群臣と宴会を開いて労をねぎらい、柵城の守護職たちにも、身分に応じて褒美を与えた。
そして、東巡の功績を岸壁に刻んで貴国の途についた。
46年(98年)冬10月、王は柵城から帰国した。

50年(102年)秋8月、遣使して、柵城を安撫した。

53年(103年)春正月、夫餘国の使者が訪れ、虎を献上した。
1丈2尺もある大虎で、明るく輝かんばかりの毛並みだったが、尻尾がなかった。
王は将軍を派遣して遼東郡の6県を奪おうとしたが、遼東太守のコウ(耳+火)夔が出兵して防いだので、高句麗軍は大敗した。

著者注:西暦107年、倭国王の帥升らが後漢の安帝に奴隷160人を献上した。

57年(109年)春正月、王は後漢に遣使し、安帝の元服を祝賀した。

59年(111年)春3月、王は後漢に遣使して特産物を献上し、玄莵郡への帰属を求めた。

62年(114年)秋8月、王は南海地方(清川江一帯)を行幸した。
62年(114年)冬10月、王は南海地方から帰った。

66年(118年)夏6月、王は穢貊とともに玄莵郡を襲い、華麗城を攻撃した。
66年(118年)秋8月、王は地方官に命じて賢良な人や孝順な人を推薦させ、自活できない独り者や老人に衣服や食糧を支給した。

69年(121年)春、後漢の幽州(中国河北省北部、遼寧省、吉林省南部、北朝鮮北西部)刺史(長官)の馮煥、玄莵郡太守の姚光、遼東郡太守の蔡諷たちは、兵を率いて襲撃し、穢貊国の兵馬財物をことごとく接収した。
大祖大王は、弟の遂成を派遣して2000余りの兵で後漢軍を迎えたが、遂成は正攻法では勝てないと考えた。
偽って投降したところ、馮煥たちがこれを信じたので、大軍を留めることに成功した。
この隙をついて、王は3000の兵を密かに派遣して玄莵郡と遼東郡を急襲させ、城を焼き、2000余人を殺害、もしくは捕虜とした。

69年(121年)夏4月、鮮卑族8000人の協力を得て、遼隊県(中国遼寧省鞍山市)を攻撃した。
遼東郡太守の蔡諷は、新昌県(中国遼寧省鞍山市)へ出兵したが、陣没してしまった。
軍人の龍端と公孫酺は、身を挺して蔡諷を守ったがともに殺されてしまった。
このときの使者は百余名であった。

69年(121年)冬10月、王は夫餘に行幸し、大后の廟を祭った。
困窮している庶民を慰問し、生活状態に応じて施しを与えた。
粛慎(中国吉林省以北にいたツングース系民族)の使者が訪れ、紫色をした狐の毛皮、白鷹、白馬を献上した。
王は、宴席を設けて労をねぎらってから、使者を帰した。
69年(121年)冬11月、王が都に帰還した。
王は、弟の遂成に軍事と国事を統括させた。
69年(121年)冬12月、王は、馬韓と穢貊の1万騎を率い、玄莵郡城を包囲した。
夫餘王は王子の尉仇台を派遣した。
2000の兵を率いて後漢軍とともに城を守ったため、高句麗軍は大敗してしまった。

70年(122年)、王は、馬韓、穢貊といっしょに遼東郡に侵入したが、夫餘王が派兵して遼東郡を助けたため、高句麗軍はまたしても敗れた。

71年(123年)冬10月、王は、沛者の穆度婁を左大臣に昇格させ、王族の高福章を右大臣に任命して、遂成とともに政に加わるよう命じた。

72年(124年)冬10月、王は、後漢に朝貢使を派遣した。

80年(132年)秋7月、遂成は、倭山(地名)で田猟し、近臣たちと宴会を開いた。
貫那部の于台の弥儒、桓那部の于台の菸支留、沸流那部の軌瓠10等中第9の官位)の陽神たちが、遂成に向かってこっそり言った。
「慕本王が崩御されたとき、群臣は不詳の皇太子が即位するのを嫌い、再思王子の即位を望まれました。
しかし、再思様は老齢を理由に、王位を息子の大王にお譲りになられました。
老いた王は子弟に譲位しなければならないとお考えになったからです。
いま大王はすでにご高齢ですが、譲位される意思は見られません。
ですから、私たちはこのことを憂慮しているのでございます」
これに対し、遂成はこう答えた。
「王位を継ぐ者が嫡男であるのは、世の常道である。
大王はご高齢であるが、立派な嫡男がいらっしゃる。
どうして私が取って替わることができよう」
弥儒が言った。
「弟が賢者で兄から王位を継いだ例は、古にもございます。
遂成様におかれましては、お疑いなさいませぬようお願い申し上げます」
これを伝え聞いた穆度婁は、遂成に異心ありと見た。
一緒に政務を執っては連座させられるかもしれないと考え、病気を理由に出仕しなくなった。

86年(138年)春3月、遂成は質陽(地名)で田猟し、7日たっても戻らず無節操に楽しんだ。
86年(138年)秋7月、遂成は箕丘(地名)で田猟し、5日たってやっと帰ってきた。
弟の伯固が諫めて言った。
「禍福に門はあく、それは人が自ら招き寄せるものです。
今あなたは王弟で百官の長となり、臣下としてこれ以上の地位はありません。
その功績も、他者と比べようもありません。
ですから、忠義の心を持ち、譲る礼儀をわきまえ、王徳に従い、庶民の心を得れば、富はあなたから離れることはなく、禍根や叛乱は起こり得ないでしょう。
しかし、今のあなたは、快楽を貪り求め憂慮することを忘れています。
ご自分の足元が危ういのがわからないのですか」
遂成は、
「凡人は富と歓楽を求めるものだ。
ただ、万人に一人しか、そんな幸運に恵まれないだけだ。
その運が私に巡ってきているのに、まだそれを使いこなすことができない。
だから、その運を使おうとしているのだ」
と言い、伯固の意見を退けた。

90年(142年)秋9月、都の丸都城に地震が起こった。
王は、豹が虎の尻尾を噛み切る夢を見た。
目覚めてから、その吉凶を占わせた。
巫女が言った。
「虎は百獣の長で、豹は同類ですが小物です。
夢の語るところによりますと、王族の中に王統を絶とうとする者がいるようでございます」
王はこれを不快に思い、右大臣の高福章に言った。
「朕が見た夢について巫女がこのように告げたのだが、どうしたらよいものだろうか」
高福章は答えた。
「善行を積まなければ、たとえ夢占いで吉と出ても凶になりますし、善行を積めば、夢占いで災いと出ても福となります。
いま大王は、国を憂うること我が家の如く、民を愛することわが子の如くでございます。
些細な事件はあるかもしれませぬが、大王を傷つけるような「大事件は起こるはずがございません」

94年(146年)秋7月、遂成は倭山の麓で田猟し、近臣の者たちに言った。
「大王は老いても亡くなる気配がない。
わたしの人生はそろそろ終わろうとしている。
これ以上待つことはできない。
おまえたちが私の計略に参加してくれるのを願うばかりである」
側に仕える者たちは声を揃えて「仰せのままに」と返事をした。
すると、ひとりが進み出て言った。
「王子様が不祥の言葉を吐いておられるのに、左右の者は誰も諫めることができず、つき従うばかり。
このような者を媚びへつらう姦臣というのです。
はっきりお聞きしますが、遂成様の真意をお聞かせ願いたい」
遂成は言った。
「そなたの直言は薬になる鉱石のようであるが、いったい何を疑っているのか」
その家臣は答えて言った。
「いま大王が賢人であることを疑う者は誰一人おりません。
王子様は大功があるといっても、媚びへつらう姦臣たちを引き連れて、大王を廃そうとしていることは明らかでございます。
こんなことは、ただ1本の糸で万斤の重さを支えて引き倒すのと何の違いがありましょうか。
それが無理なことは、どんな馬鹿者でも知っている道理でございます。
もし王子様が悔い改めて恭順の意を表せば、大王は王子様の善なることをよくご存知なわけですから、王子様に禅譲するお心が必ずおありになります。
悔い改めなければ、災いが及ぶこと必定です」
遂成はこの直言を不快に思った。
左右の者たちは直言を妬み、遂成に讒言した。
「王子様は、大王が年老いたことで我が国が危うなることを心配され、後々の方策を立てておられるだけでございます。
こやつの妄言が漏洩することだけが気がかりです。
禍根とならぬよう、殺して口を塞いでしまうのが良策かと存じます」
遂成は近臣の意見を聞き入れた。

94年(146年)秋8月、王は将軍を派遣して、遼東郡の西安平県(中国遼寧省丹東市)を襲撃し、帯方(北朝鮮黄海道)県令を殺害し、楽浪郡太守の妻子を略奪した。
94年(146年)冬10月、右大臣の高福章が王に言った。
「遂成が謀反を起こそうとしています。
その前に遂成を誅殺すべきです」
王は言った。
「朕は年老いた。
遂成の我が国に対する功績は甚大である。
だから、王位を遂成に譲ろうと思う。
そなたが悩む必要はない」
高福章は言った。
「遂成様の人に対する行いは、残忍で思いやりがありません。
今日譲位を受ければ、明日には大王の子孫を殺し始めるでしょう。
大王は、ただ不仁の弟に恩恵を施そうとしているだけで、無辜の子孫に害が及ぼうとしているのをご存知ではありません。
この件につきましては、どうか熟慮いただけますようお願い申し上げます」
94年(146年)冬12月、王は遂成に
「朕は年老いてすべてのことに飽きてしまった。
天の暦もそなたが王位を継ぐ時期だと言っている。
内では国政に参画し、外では軍事を担い、長らく高句麗のために尽くしてくれた。
人民の望みを託し禅譲できるのは、そち以外におらぬ。
そなたが継いでくれれば、朕は永遠に休むことができる」
と言って禅譲し、離宮に隠居した。
この王の諡号を、大祖大王とした。

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次大王は諱を遂成といい、大祖大王の同母弟である。
勇敢で威厳があったが、慈悲の心が足りなかった。
大祖大王から禅譲されて即位した。
そのとき76歳であった。

2年(147年)春2月、王は貫那部の沛者である弥儒を左大臣に昇進させた。

2年(147年)春3月、右大臣の高福章が誅殺された。
高福章は死ぬ間際に嘆息して言った。
「無実の罪を着せられるのは、我ながら痛ましいことだ。
当時の私は先王の側近で、反乱を企てている賊臣を見て黙っていることなどできましょうか。
先王がわたしの進言を受け入れてくださらなかったため、このようなことになってしまいました。
いま大王が即位されたのですから、新しい政策を万民に示し、不義の家臣をひとり処刑されるのがよろしいでしょう。
私は道理がまかり通らない不幸な時代を生きてしまいました。
早く殺してください」
そして、すぐに処刑された。
この話を聞いた高句麗人はみな憤慨し、高福章の死を悼まない者はなかった。

2年(147年)秋7月、左大臣の穆度婁が病気を理由に辞任したので、桓那部の于台の菸支留を左大臣に昇進させ、大主慕(10等中第5の官位)を追位した。
2年(147年)冬10月、沸流那部の陽神を中畏大夫(宰相に次ぐ重職)に昇進させ、于台の爵位を与えた。
これらの人物は、みな王の旧臣であった。

3年(148年)夏4月、王は人に命じて、大祖大王の嫡男である莫勤を殺させた。
弟の莫徳は、自分に災いが及ぶのを恐れて縊死した。

3年(148年)秋7月、王は平儒原(地名)で田猟を行った。
白い狐がついて来て鳴くので、弓で射ったがあたらなかった。
そこで巫師に尋ねた。
巫師は答えて言った。
「狐は妖獣であって、吉祥を表しません。
とくに白は、不吉極まりない証し。
天は自らの考えを直接語ることができません。
そのため、白狐という妖怪を出現させ、王に悔い改めるよう促しているのでしょう。
王がこれから徳を修めれば、禍転じて福となすこと間違いございません」
「凶ならば凶となり、吉ならば吉となるもの。
そちは、怪しいと言っておきながら、福になるとも言う。
朕を馬鹿にしておるのか」
こう言って、王は巫師を殺してしまった。

20年(165年)春3月、大祖大王が離宮で薨去した。
このとき、119歳だった。
椽那部の皀衣の明臨答夫は、国民は王の暴政にこれ以上耐えることができないと判断し、王を謀殺した。

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新大王は諱を伯固(もしくは伯句)といい、大祖大王の末弟にあたる。
見目麗しく英明で、思いやりがあって憐れみ深い性格であった。
先王の次大王は傍若無人で我が儘だったので、臣民は親しみを感じることができず、禍や乱を恐れた。
伯固は害が自分に及ぶのを恐れ、山谷に逃げて身を隠した。
次大王が虐殺されると、左大臣の菸支留は群臣と会議を開き、伯固を後継者に決め、迎えの使者を派遣した。
伯固が王宮に到着すると、菸支留はひざまずき、国政に必要な王の印綬を差し出して言った。
「先君(次大王)は不幸にも崩御されました。
王子様たちはご存命ですが、国政を委ねるほどの力量はおありにならないようでございます。
国政が仁に戻ることを、民は待ち望んでおります。
謹んでお願い申し上げます。
玉座に就いて人臣をご教導ください」
伯固は、諸葛孔明のように(三顧の礼)三度辞退してから即位した。
このとき、77歳であった。

2年(166年)春正月、王は次のような恩赦令を発布した。
『朕は王族として産まれたが、そもそも君主としての徳がない。
先王が親族を迫害するに及んで不安を覚え、人里離れた遠方へ逃げた。
先の大王が臣下に殺されるという凶訃を伝え聞き、深い悲しみに包まれていた。
そんなときに民や群臣がすすんで推戴してくれるとは望外の喜びであった。
無能にもかかわらず崇高な地位に就いたため、まだ安寧な気持ちになれず、深い淵か海を渡っているような気分である。
遠方にまで恩恵を施し、民とともに新たな国造りに邁進するため、国中に大赦を行う』

恩赦令の発布を聞いた国民はみな「新大王の徳はなんと大きいのだろう」と言って大喜びした。

次大王の皇太子だった鄒安は、明臨答夫事件で逃亡したままになっていたが、新大王の大赦を聞いて舞い戻り、王宮の門前で言った。
「国に難が降りかかったとき、死ぬこともできず逃げてしまいました。
いま王による新政が始まったと聞き、自らの罪を懺悔しに戻ってまいりました。
もし大王が法に則り市場で処刑するようお命じになられても、愚臣はご命令に従う所存でございます。
ご助命いただき遠方に流罪としていただけますならば、死体に骨や肉をつけて蘇らせるほどの喜びでございます。
しかし、いくら望んでも叶うような願いでないこと、重々承知いたしております」
王は鄒安に句山瀬(地名)と婁豆谷(地名)を与え、譲国君に封じた。
また、明臨答夫を国相(総理大臣)に任命して国政と軍事を兼務させ、梁沛者の爵位と梁貊(渾江西岸部)の領地を与えた。
このとき、左大臣(左輔)と右大臣(右輔)は国相に統合された。

3年(167年)秋9月、王は旧都の卒本に行幸し、始祖廟を祭った。
3年(167年)冬10月、王が卒本から戻った。

4年(168年)、玄莵郡太守の耿臨が侵入し、高句麗兵数百名を殺害した。
王はすすんで投降し、玄莵郡に属することを願い出た。

5年(169年)、王は、大加の優居や主簿の然人等に兵を率いさせて玄莵郡太守の公孫度を助け、富山(地名)の反乱軍を討伐した。

8年(172年)冬11月、後漢が高句麗へ大軍を送った。
攻めるべきか守るべきか、王は群臣に諮問した。
家臣たちは議論の末、答えて言った。
「漢兵は大群を頼みにして我が軍をなめております。
もし出撃しなければ、漢軍は我が軍を臆病だと見なし、何度でも攻めて来ることでありましょう。
我が国は山々が峻険で道が狭いため、関を一兵卒で守っていても、万兵で攻めることはできません。
漢兵がいくら多いといっても、何か方策があるはずでございます。
出陣して国をお守りくださいますようお願い申し上げます」
これを聞いた明臨答夫は言った。
「そうではございませぬ。
大国の漢は多くの民を抱えております。
その漢の強兵がはるばる遠征して来て、我が兵と一戦交えようとしております。
正面からぶつかって、とうてい勝てるものではございませぬ。
兵多なれば急襲、兵少なれば墨守。
これが兵法の常道でございます。
いま漢軍は千里のかなたから兵糧を運び入れており、持久戦に耐えられるような状態ではございません。
堀を深くし、その土で土塁を高く積み上げ、城の周りを焼き払って見通しをよくした上で漢軍を迎え討てば、10日もしないうちに飢えに苦しんで撤退することでありましょう。
そして、漢軍が退却を始めたときに精兵で追撃すれば、我が軍の勝利に終わることでしょう」
王は明臨答夫の策を進めることにした。
高句麗軍は、籠城して固く守った。
後漢軍は城を攻めたてたが、城門を破ることはできなかった。
果たして、後漢兵は飢餓に陥り、引き上げて行った。
明臨答夫は数千の騎兵を率いて追走し、坐原(地名)で戦った。
後漢軍は大敗し、一匹の馬も帰ることができなかった。
王は大いに喜び、坐原と質山を明臨答夫に与えた。

12年(176年)春正月、群臣が王に皇太子を立てるよう請願した。
12年(176年)春3月、王は、王子の男武を皇太子とした。

15年(179年)秋9月、国相の明臨答夫が113歳で死去した。
王は自ら弔問に訪れて慟哭した。
悲しみのあまり7日間政務を執らなかった。
礼葬を行って質山に埋葬し、20戸の墓守を置いた。

15年(179年)冬12月、王が薨去した。
故国谷(地名)に埋葬され、諡号を新大王とした。

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故国川王(もしくは故国襄王)は諱を男武(もしくは伊夷謨)といい、新大王伯固の第2子である。
伯固が崩御すると、家臣たちは長男の抜奇を不肖者として退け、次男の男武を共立した。
王は背丈が九尺あり、容姿は英傑そのもので、鼎を軽々と持ち上げるほど力があった。
揉め事は、聴いて即断した。
優しいことも厳しいこともあったが、すべて的を得た裁きだった。

2年(180年)春2月、掾那部の于素の娘である于氏を皇后とした。
2年(180年)秋9月、王は卒本に行幸し、始祖廟を祭った。

著者注:184年、黄巾の乱が起こり、後漢王朝は崩壊に向かっていく。

6年(184年)、後漢の遼東太守が高句麗に攻め込んできた。
王は、王子の罽須を派遣して守りにあたらせたが、防ぎきることができなかった。
王は騎馬の精兵を率いて親征し、坐原で後漢軍と戦い、これを討ち破った。
斬った漢人の首が山積みにされた。

著者注:189年、この頃、倭国で卑弥呼が女王の座についた。

12年(190年)、秋9月、都に雪が六尺も積もった。
中畏大夫で沛者の於畀留と評者の左可慮は、皇后の外戚として国権を欲しいままにした。
その子弟も権力をかさにきて驕り高ぶり、他家の子女を略奪したり、農地や屋敷を奪い取ったりしたため、民は憤り恨んでいた。
これを聞いた王は誅殺しようとしたが、左可慮たちが四掾那(掾那部内の有力4部族)とともに反乱を起こした。

著者注:190年頃から三国時代に入る。

13年(191年)夏4月、左可慮たちは兵を集めて王都を攻めた。
王は畿内の兵馬を集め、反乱軍を平定した。
ついに王令が発布された。
『近頃、官位の昇給は情実によってなされ、人徳によっていない。
民に甚大な影響を与え、王家すら動揺する始末だ。
これはすべて朕の不徳の致すところである。
四部(掾那部以外の高句麗五族)は、在野で賢良な人物を捜して推挙せよ』
四部の者たちはみな、順奴部の晏留を推してきた。
王は晏留を召し出して国政をまかせようとした。
晏留は言った。
「臣下の端くれに過ぎない私は凡庸愚鈍で、国政に参加するような能力は、もとより持ち合わせておりません。
しかし、西鴨緑谷の左勿村にいる乙巴素は、瑠璃明王の大臣を勤めた乙素の孫でございます。
剛毅で知恵があり思慮深い男でございますが、世に認められず畑を耕して日々を送っております。
大王が国をうまく治めようとされるなら、この者がうってつけでございます」
王は使者を出して、辞を低くし丁重な礼をもって乙巴素を迎えた。
王は乙巴素を中畏大夫に任命し、于台の爵位を与えた。
王が言った。
「いま先王の偉業を引き継いで民の上に立っておりますが、徳が薄く才が足りないため、いまだにうまく国を治めることができません。
先生は偉才を隠し草深い村でひっそりと暮らしておられたが、その生活を棄てて都へお越しいただけることになりました。
これは私のためだけではなく、高句麗と国民にとって大変喜ばしいことです。
先生のお教えをたまわりたいのです。
心を尽くして国のために働いていただけないでしょうか」
乙巴素は国のために尽くしたいと思ったが、与えられた職階では権限が十分でなく国を治めるのは困難だと判断した。
そこで、答えて言った。
「愚臣は力量不足で、大王の厳命を遂行するのは難しいかと思います。
大王にあられましては、より賢良なる者をお選びになられ、その者に高職を授けて大業を成し遂げていただきたく存じます」
王は乙巴素の意思を知り、国相に任命して国事にあたらせることにした。
大臣や外戚たちは、乙巴素が新しい国相になったことが気に入らず、さまざまな嫌がらせをした。
そのため王は家臣たちにこう命じた。
「身分の貴賎にかかわらず、国相に従わぬ者は罰する」
乙巴素は王宮を退出し、知人に言った。
「時勢に合わなければ隠棲し、時勢が合えば国に仕えるのが、士としての常道です。
反対勢力が強く時勢に合っていないのは確かですが、いま大王は厚意をもって遇してくださっています。
それなのに、以前のような隠遁生活に戻ってもよいものでしょうか」
悩んだ末、乙巴素は誠心誠意国に仕えることに決めた。
乙巴素は国の方針を明らかにし、賞罰を慎重に行ったので、民はみな安心し、王都の内外で問題が起こることもなかった。

13年(191年)冬10月、王は晏留に言った。
「そなたの一言がなければ、巴素に出会って国政をともに担うことはなかった。
いま業績が上がっているのは、そちの功績によるものじゃ」
王は晏留に大使者の爵位を授けた。

16年冬10月、王は質陽で田猟を行った。
王は道に座って泣いている者を見つけ、どうして泣いているのか尋ねた。
その者は答えた。
「家が貧しく小作人をして母を養っておりますが、今年は不作で手伝う畑がなく、糊口をしのぐ食糧さえ得られない始末です。
そのため泣いておるのでございます」
王が言った。
「朕は民の父母でありながら、民をこのような目に遭わせている。
コレは朕の罪である」
王はすぐに衣食を支給して民を慰めた。
内外の役所に命じ、寡婦、孤児、独り者、老人、病人、貧乏人で自活できない者を救済させた。
また、役人に命じ、毎年3月から7月まで国庫の穀物を家族数に応じて貸し与えて10月に返納させるようにした。
以後毎年施行されたので、都の民も外地の民もみな大喜びした。

19年(197年)、中国に大乱が起こり、戦乱を避けて高句麗に投降してくる漢人がとても多くなった。
この年は後漢の献帝建安2年にあたる。

19年(197年)夏5月、王が薨去した。
故国川に埋葬し、諡号を故国川王とした。

後漢の献帝の建安年間(196〜220年)の初め、兄であるにもかかわらず即位できなかったことを恨んでいた抜奇は、消奴部の加と3万人あまりを率いて、遼東の地を支配していた公孫康に投降した。
このあと、抜奇たちは沸流水の上流に戻って暮らした。

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山上王は諱を延優(もしくは位宮)といい、故国川王の弟である。
王は宮(大祖大王)にそっくりだった。
高句麗語で似ていることを位(イ)と言ったので、名前を位宮とした。
故国川王には子がなかったので、延優が王位を継承した。

故国川王が薨去したとき、皇后の于氏は王の崩御を秘密にして公表しなかった。
その夜、于氏は王弟の発歧を訪ねて言った。
「王には跡継ぎがおりませぬ。
そなたが後継者になるのがよいのでは」
発歧は王が薨去したことを知らなかったので、
「天の暦は巡り巡って定められた場所へ戻ります。
王統について軽々しく議論なさってはなりません。
ましてや、ご婦人が夜訪れることが礼儀正しい行いだといえるでしょうか」
と答えた。
皇后は後悔し、その足で延優の邸宅を訪問した。
延優は衣冠を調え、皇后を門で出迎えた。
居間に招きいれ、皇后のために宴席を用意した。
皇后が言った。
「今日、大王がお隠れになりましたが、後を継ぐ王子がおりませぬ。
発歧が年長で後継者となるべきですが、私に異心があると疑い、不遜で無礼な応対でした。
そこで弟のあなたに会いに来たのです」
延優はさらに篤くもてなし、皇后のために自ら小刀を握って肉を切り分けた。
このとき、延優は誤って指先を傷つけてしまったが、それを見た皇后は腰帯を解いて患部に巻いた。
王宮へ帰るとき、皇后が言った。
「すっかり夜が更けてしまい、不慮の事が起こるやもしれませぬ。
王宮まで送っていただけないでしょうか」
延優は従った。
皇后は、延優の手をとって王宮に入った。
翌日の早朝、皇后は、故国川王の遺命だと嘘をつき、群臣に命じて延優を即位させた。

これを聞いた発歧は大いに怒り、王宮を兵で取り囲んで叫んだ。
「兄が死んだら、すぐ下の弟が継ぐ。
それが礼というものだ。
それなのにおまえは、長幼を無視して王位を簒奪した。
これは大罪である。
すみやかに出てきなさい。
出てこなければ妻妾を誅殺する」
延優が門を閉ざして3日たっても、発歧に従う家臣はいなかった。

このままでは自分に禍が降りかかると思った発歧は、妻子を伴って遼東郡へ出奔し、公孫度に面会して言った。
「私は高句麗王男武の同母弟です。
男武には跡継ぎがいなかったのですが、弟の延優が皇后と謀略を巡らし、まんまと即位してしまいました。
これは天倫の義に反する行いです。
どうにも怒りが収まらないので、こうして投降しました。
伏してお願いいたします。
3万の兵をお貸しください。
延優の軍を撃破して、高句麗を平定いたします」
公孫度はその願いを聞き入れた。

延優は弟の罽須を派遣して、防衛に当たらせた。
漢軍が大敗すると、罽須は先頭に立って北へ追いかけた。
発歧は罽須に言った。
「おまえは年老いた兄を殺すというのか」
罽須は、兄弟の情を抑えることができず、発歧を殺さなかった。
罽須は言った。
「確かに国をお譲りにならなかった行為は、義に反します。
しかし、一時の憤懣から祖国を滅ぼそうとするのは、いったいどういう了見です。
寿命を終えたあと、どの面を下げてご先祖様に会うつもりですか」
発歧はこれを聞いて、慙愧の念に耐えられなくなり、裴川(地名)まで逃げて、自分の首を掻っ切って死んだ。
罽須は発歧の死を悲しみ、大声を上げて泣いた。
遺体を仮埋葬してから都へ帰還した。

王は複雑な気持ちで罽須を迎えた。
罽須を宮廷内に招いて宴席を設けたが、家人に対する礼で対応した。
王は詰問した。
「発歧は異国で兵を募り我が国を侵した。
その罪はあまりにも大きすぎる。
おまえは賊軍を討ち破ったが、発歧の懇願を受け入れて殺さなかった。
発歧が自決すると、大いに悲しみ泣き叫んだ。
朕がはなはだ無道であると言いたいのか」
罽須はうな垂れて涙を流しながら答えた。
「愚臣はいま一言だけ申し上げて死にとうございます」
王は「何が言いたいのじゃ」と言った。
罽須は言った。
「皇太后様は先王の遺命により大王を立てられました。
しかし、大王は王位を譲る礼(形式的に即位を数度辞退する儀礼)をされませんでした。
これでは兄弟が共に相親しむ義が行われるはずがございませぬ。
愚臣は大王の美徳を成さんがため、発歧の亡骸を収めて仮埋葬したのでございます。
このことがどうして大王のお怒りにつながるのか、愚臣にはわかりませぬ。
もし大王が発歧の悪行をお忘れになり思いやりの心でご対応なされば、もし大王が兄の礼に則った葬礼を催行なされば、誰が大王のことを義の心が足りない者だと言いましょうか。
愚臣が申し上げたかったことはこれだけにございます。
言い終わったら死ぬと申しましたが、まだ生きております。
どうか役人に引き渡して、愚臣を誅殺してくださりませ」
王はこの話を聞いて、罽須の前に座り直し、温和な表情で慰め諭して言った。
「朕は愚か者でいろいろ惑わされる。
いまおぬしの話を聞いて、己の過ちがよくわかった。
そう責めないでくれ」
罽須は王に拝礼し、王もまた罽須に礼拝した。
互いに喜び合って終わった。

元年(197年)秋9月、役人に命じて発歧の棺を移し、裴嶺(地名)で王の儀礼に則った葬儀を執り行った。
王は于氏のおかげで即位できたので、新たな王妃を娶らず、于氏を皇后に立てた。

2年(198年)春2月、都に丸都城を築いた。

7年(203年)春3月、王には子がなかったので、山川の神々に祈りを捧げる儀式を行った。
満月の夜、天の神が夢に出てきて言った。
「汝の小后(側室)に男児を産ませるから心配する必要はない」
目覚めた王は群臣に言った。
「天の神がこのように語ったのだが、朕には小后がおらぬ。
どうしたらよいだろう」
乙巴素が答えて言った。
「天命は計り知ることができぬもの。
大王にあられましては、ただ天命を待つのみかと存じます」

7年(203年)秋8月、国相の乙巴素が逝去した。
国の者たちはみな泣いて悲しんだ。
王は高優婁を国相に任命した。

12年(208年)冬11月、神へ奉納するための豚が逃げ出した。
担当官は豚を追って酒桶村に至った。
あちこち動き回るので、なかなか捕まえることができなかった。
二十歳くらいの艶やかで美しい娘が、笑いながら進み出て豚を捕まえたので、後からやってきた担当官は豚を得ることができた。
この話を聞いた王は不思議に思い、その娘を見てみたくなった。
お忍びで娘の家に行き、門番に王の到来を告げた。
家の者は王の来訪を知り、拒むことなく招き入れた。
王は家に入ると娘を呼び、側に侍らせようとした。
娘が言った。
「大王のご命令とあらば、あえて避けようとはいたしませぬ。
もし幸運にも子をなしましたならば、どうかお見捨てになられませぬようお願い申し上げます」
王は頷いた。
王は夜更けに目を覚まして王宮へ戻った。

著者注:208年、赤壁の魏が敗れ、三国鼎立の時代に入る。

13年(209年)春3月、皇后は、王が酒桶村の娘を寵愛しているのを知った。
これを妬んだ皇后は、密偵を送りこんで娘を殺そうとした。
この企てを知った娘は、男服を着て逃走した。
追いついた密偵は、娘を殺そうとした。
娘が言った。
「おまえたちはいま私を殺そうとしているが、それは王の命令か、それとも皇后の命令か。
私のおなかには王のお世継ぎがいるのですよ。
私を殺すのはかまわないが、お世継ぎを殺すつもりか」
密偵は殺すのをやめ、皇后のところに戻って娘の話をした。
話を聞いた皇后は怒り、なんとしても娘を亡き者にしようとしたが、なかなか実行できなかった。
王はこの話を聞き、娘の家へ行って尋ねた。
「そなたが懐妊したと聞いたが、誰の子じゃ」
娘が答えて言った。
「私は普段、兄弟とも同席いたしませぬ。
ましてや他家の男子を近づけるようなことがありましょうか。
いまおなかにいる子は、大王のお世継ぎでございます」
王は娘をいたわり気遣い、祝いの品々を山のように贈った。
王宮に戻った王は、皇后に娘の懐妊を告げた。
そのため、皇后は娘を殺すことができなくなった。

13年(209年)秋9月、酒桶村の娘が男児を産んだ。
王は喜んで言った。
「この子は天が朕に授けてくださった世継ぎじゃ。
神に捧げる豚に始まり、子の母を寵愛することで世継ぎを授かった。
この子の名は郊彘にしよう。
子の母は宮中に入れて小后とせよ」
小后の母が妊娠しているとき、巫女が占って言った。
「あなたは王后を産むでしょう」
小后の母は喜んで、娘が産まれると后女と名付けた。

13年(209年)秋9月、王は都を丸都城に移した。

17年(213年)春正月、王は郊彘を皇太子に立てた。

21年(217年)秋8月、平州(中国遼寧省一帯)の夏瑤が1000戸あまりの民を連れて投降して来た。
王は受け入れ、柵城に住まわせた。

著者注:220年、後漢が滅亡し、魏の曹丕が皇帝となる。

28年(224年)、王孫の然弗が産まれた。

31年(227年)夏5月、王が薨去した。
山上(地名)の王陵に埋葬し、諡号を山上王とした。

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東川王(もしくは東襄王)は、諱を優位居(もしくは位宮)といい、幼名を郊彘といった。
山上王の長子である。
母は酒桶村の人で、王宮に入って山上王の小后となった。
史料がないため、部族の姓はわからない。
先王の17年に皇太子となり、この年(227年)になって王位を継いだ。
王は、心が広く思いやりがあった。
皇后は、王の気持ちを試そうとした。
王が外に出たとき、王馬のたてがみを切らせた。
王は帰ってきて言った。
「馬にたてがみがないのは可愛そうだのう」
また、食事のときに熱いスープを王の服にこぼさせたが、王は怒らなかった。

2年(228年)春2月、王は卒本へ行幸して、始祖廟を祭り、大赦を行った。
2年(228年)春3月、于氏を皇太后に封じた。

4年(230年)秋7月、国相の高優婁が逝去したので、于台の明臨於漱を国相に任命した。

8年(234年)、魏が使者を派遣し、我が国との国交を求めた。
8年(234年)秋9月、皇太后の于氏が薨去した。
皇太后は臨終の際に遺言を残した。
「正しい行いを失い、ふたりの王の妻となりました。
地下で国壌王(故国川王)にお会いすることができましょうか。
群臣たちに忍びないという気持ちがあるのなら、国壌王が眠る故国川ではなく、山上王陵の側に葬ってくだされよ」
葬儀は遺言通りに執り行われた。
巫師が故国川王の言葉を告げた。
「昨日、于氏が山上王のところへ行こうとするのを見た。
怒りを抑えられず喧嘩をしてしまった。
おとなげないことをしてしまったと後から後悔した。
民に合わせる顔がないから、おぬし(巫師)が朝廷へ行き、なにかで陵を遮るよう伝えてくれ」
そこで、故国川王の陵墓の前に松を七列にして植えた。

10年(236年)春2月、呉の孫権が胡衛を派遣し、我が国との国交を求めてきた。
王は胡衛を王都に留めておいた。
10年(236年)秋7月、王は胡衛を斬首し、その首を魏に送った。

11年(237年)、魏に祝賀使を派遣した。
この年が景初元年である。

著者注:238年、魏が帯方郡を支配下に置く。

12年(238年)、魏の太傅の司馬宣王が兵を率いて、遼東の地を支配していた公孫淵を討った。
王は主簿や大加を派遣し、1000人の高句麗兵で魏軍を助けた。

著者注:239年、倭女王卑弥呼が帯方郡に遣使する。使者は魏都まで至る。

16年(242年)、王は将軍を派遣して、遼東郡の西安平(中国遼寧省丹東市)を襲撃して討ち破った。

17年(243年)春正月、王子の然弗を皇太子とした。
国内に恩赦を行った。

19年(245年)春3月、東海(日本海)地方の人が美女を献上した。
王は美女を後宮に入れた。

19年(245年)冬10月、出兵して新羅の北辺に侵入した。

20年(246年)秋8月、魏は幽州刺史の毌丘倹を派遣した。
1万の兵で玄莵郡を出発し、高句麗に侵入した。
王は歩兵騎兵合わせて2万の軍を率い、沸流水で迎え撃った。
魏軍に勝ち、3000あまりの首を得た。
その後、梁貊谷(中国遼寧省丹東市)で再戦して勝利し、斬ったり捕らえたりした者は3000あまりにのぼった。
王は諸将に言った。
「魏の大軍が我が国の小軍に勝てないでいる。
毌丘倹は魏の名将というが、その命は朕の掌中にある」
5000の鉄騎兵で魏軍を追撃したが、毌丘倹は方陣をつくって必死に防戦した。
その後、形勢が逆転して高句麗軍は壊滅し、18000余人が戦死した。
王は千余騎の兵とともに、鴨緑原(地名)まで逃げた。

20年(246年)冬10月、毌丘倹は王都の丸都城を陥落させ、高句麗人を殺戮した。
毌丘倹は、将軍の王頎に高句麗王を追走させた。
王は南沃沮へ逃げようとして竹嶺(咸鏡南道)まで来たが、途中で兵が散ってしまい、王の側に残った者はほとんどいなかった。
王が名前を知る者は、東部の密友だけだった。
密友が王に言った。
「追っ手が目の前に迫って来ております。
このままでは脱することもままなりませぬ。
愚臣が死ぬ覚悟で防ぎますので、その間に大王はお逃げくだされ」
密友はしんがりの決死隊を募り、全員で追撃軍を防いだ。
王は脱出に成功し、山や谷に散っていた部隊を集めた。
王は言った。
「密友を助け出した者には、望むだけの褒美を与えよう」
下部の劉屋句が進み出て言った。
「愚臣が行って参りましょう」
劉屋句は戦場でうつ伏せに倒れている密友を見つけ、背負って帰った。
王は自らのふとももに密友の頭をのせた。
しばらくすると、密友が息を吹き返した。
敵に見つからないように間道を回り道して、なんとか南沃沮に着いた。
しかし、魏は追撃をやめなかった。
王は妙案が浮かばず、どうしたらよいかわからなかった。
そのとき、東部の紐由が進み出て言った。
「事態は逼迫しておりますが、無駄死にはなりませぬ。
愚臣に計略がございます。
食べ物と酒を携えて魏の陣中を見舞い、隙を見て敵将を刺し殺しまする。
事がうまく運びましたら、奮撃してご勝利くださいませ」
王は頷いた。
紐由は偽って魏軍に投降して言った。
「我が王は大国の魏に逆らうという罪を犯し、海浜まで逃亡しましたが、もう身を隠す場所もございません。
これから陣前へ出向いて降服し、王の生死は御国におまかせいたします。
その使者として愚臣が遣わされました。
ここに従者の進物として、食べ物と酒を持参いたしました」
魏の将軍は投降を許した。
紐由は食器に小刀を隠して進み出て、小刀を抜いて将軍の胸を突き刺し、自分も死んだ。
魏軍が乱れると、王は三方から襲撃した。
混乱した魏軍は陣形を立て直すことができず、ついに楽浪から撤退した。

王は帰国すると論功行賞を行い、密友と劉屋句を第一とした。
密友には巨谷と青木谷を、劉屋句には鴨緑江の杜訥河原を、領地として与えた。
死んだ紐由には、九使者の爵位を贈り、跡継ぎの多優を大使者に昇格させた。

この戦争で、魏の将軍は粛慎の南境まで進み、戦功記念の文を岩壁に刻んだ。
また、丸都山でも岩壁に『不耐城』の銘を刻んで帰国した。

以前、家臣の得来は、しばしば中国に侵入する王を何度も諫めたが、王は聞く耳を持たなかった。
得来は嘆いて言った。
「王都は中国に襲われ、ヨモギしか生えない不毛の地となるだろう」
そして、断食して死んだ。
その後、丸都城に来た毌丘倹は、軍令を出して得来の墓を守らせた。
また、墓の周りの木を切ることも禁じ、捕らえられていた得来の妻子を解放した。

著者注:247年、倭国が狗奴国と争う。

21年(247年)春2月、魏軍に破壊された丸都城は復旧不可能と判断された。
王は平壌に城を築き、民を宗廟、社稷とともに移した。

22年(248年)春2月、新羅の使者がやってきて国交を求めた。
22年(248年)秋9月、王が薨去した。
柴原(地名)に埋葬し、諡号を東川王とした。
みな王の恩徳を懐かしみ、悲しまない者はいなかった。
殉死を願い出る家臣が多くいたが、嗣王の中川王は礼に合わないとして殉死を禁じた。
しかし、葬儀当日、王陵に来て殉死する者がはなはだ多く、民は柴を刈って遺体を覆った。
そのため、この地は柴原と名付けられた。

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中川王(もしくは中壌王)は、諱を然弗といい、東川王の子である。
きりりとして爽やかな印象の容貌を持ち、知略に優れていた。
東川王の17年(243年)に立太子され、22年(248年)の秋9月、先王の薨去によって即位した。

著者注:この頃、奈良県に前方後円墳が出現し、大和王朝が誕生する。

元年(248年)冬10月、掾氏を皇后とした。
元年(248年)冬11月、王弟の預物や奢句たちが謀反を起こし、誅殺された。

3年(250年)春2月、王は国相の明臨於漱に、知内外兵馬事(軍務大臣)を兼務させた。

4年(251年)夏4月、王は、貫那婦人を皮袋に詰めて西海(渤海)に棄てさせた。
貫那婦人は佳麗な美人で、髪が九尺もあった。
王は貫那婦人を愛し