前期が150万年前頃〜20万年前頃、中期が20万年前頃〜4万年前頃、後期が4万年前頃〜B.C.11000年頃(前半期と後半期の境目はB.C.13000年)とされている。
なお、地質学的には、旧石器時代前期後半までが前期更新世、旧石器時代前期末期が中期更新世、旧石器時代の中期と後期が後期更新世に相当する。
中国では、安徽省の人字洞遺跡で200万〜240万年前の地層から石器が発見されているが、自然石だと主張している専門家も少なくない。
雲南省の元謀遺跡(人骨化石は元謀人と呼ばれている)など100万年以上前とされる旧石器時代前期の遺跡は、龍骨坡遺跡、小長梁遺跡、西侯度遺跡、龍骨洞遺跡、藍田遺跡、金牛山遺跡など全国に10カ所ほどあり、これが本当だとすると、東アジアにはかなり古くから人類が住んでいたことになる。
華南エリアの石器様式は、ヨーロッパのアシュール文化よりも古く、アフリカの典型オルドワン文化との類似点が多いという意見もある。
朝鮮半島でもっとも古い旧石器時代遺跡は約70万年前のもので、北朝鮮の平安南道祥原にある黒隅里洞窟や、韓国の京畿道漣川にある全谷里遺跡が有名。
中期時代の遺跡では江原道楊口の上舞龍里遺跡が、後期では忠清南道公州の石壮里遺跡がよく知られている。
日本では、北海道から九州まで5000カ所以上の遺跡が発掘されているが、前期と中期の遺跡はまだ発見されていない。
考古学では石器の使用を旧石器時代の始まりとしているが、アフリカ大陸エチオピアのハダールで250万年前頃の石器が発見されている。
二足歩行していた猿人(アウストラルピテクス類)の化石は、現在のところ500万年前のラミダス猿人が最古とされている。
人類の起源がアフリカであることははっきりしているが、進化については大きく2説ある。
ひとつは、旧人類がまず世界中に拡散して、その後各地で独自に進化したする人類多元説。
もうひとつは現生人類(新人)は旧人と遺伝的なつながりはなく、約20万年前にアフリカから世界中に拡散したとするアフリカ起源説だ。
遺伝学等の最新科学によるデータは、アフリカ起源説を支持している。
たとえば、ヨーロッパのネアンデルタール人は、我々とは遺伝的な繋がりがないことが、化石のDNA検査で証明されている。
旧石器時代前期から後期にかけて、中国の文化圏は使用石器の種類でふたつに分けることができる。
華南から黄河一帯までの南中国が礫石器(れきせっき)文化で、華北・西北・東北地域の北中国が剥片石器(はくへんせっき)文化だ。
朝鮮半島も剥片石器文化圏に属する。
礫石器は原石を加工せずにそのまま使用した石器で、使用痕があるかどうかが自然石との差になる。
剥片石器は原石を打ち砕いてできた破片から製作したものだ。
北京原人で有名な北京の周口店遺跡では、礫石器と剥片石器が一緒に出土していて、華北北部地域が両文化の接触地帯であったことが分かる。
旧石器時代後期になると、黄河流域以北には細石刃(さいせきじん)文化が出現する。
この文化は北方のシベリア地方からもたらされたもので、核になる石を細い剥片に割って製作された。
最終氷期にあたる約3万年前から急激に寒冷化が進み、それに伴い細石刃文化が、長江流域まで広がった。
もちろん、朝鮮半島にも細石刃文化が伝わっている。

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126年前に制作された最初の太極旗、英国で見つかる
独立記念館(忠清南道天安市)は27日、126年前に制作された太極旗(韓国の国旗)の原型にあたる旗が英国国立公文書館に保管されているのを発見し、この旗を3月1日の3・1節(独立運動記念日)に公開する方針を明らかにした。
今回公開される最古の太極旗は、1882年に朴泳孝(パク・ヨンヒョ)が日本への航海中に制作した太極旗の原本をそのまま写したものとされる。この太極旗は1882年11月1日に日本の外務大輔(現在の外務次官にあたる)、吉田清成が駐日英国公使に送った書簡に添付されていたものだ。
独立記念館の関係者は「これまで太極旗の原型については論争が絶えなかったが、今回もっとも古いものが発見されたことで、それも収束することだろう。由来を正確に把握することで、いっそう太極旗に誇りを持ってもらえるのではないかと期待している」と語った。
[朝鮮日報JNS 2008.02.28]
1882年は、明治15年、李氏朝鮮では高宗の19年にあたります。
岐阜で板垣退助が襲われ、日本銀行が設立された年です。
この年の8月30日、日本政府は李氏朝鮮政府と済物浦条約を結んでいます。
7月23日、漢城(ソウル)の日本公使館が襲撃され、公使館の日本人や朝鮮政府の高官が殺害されました(壬午事変)。
日本政府は朝鮮へ軍隊を派遣して交渉にあたり、日本軍が朝鮮に駐留して公使館を警備する権利を認めさせました。
このとき締結されたのが、済物浦条約です。
ちなみに、済物浦は仁川の旧名です。
この条約では謝罪使の派遣も義務付けられており、記事中の朴泳孝は謝罪使の一員であったと思われます。
朴泳孝たちは、日本での交渉を有利に進めるため、船中で国旗を考案し、それを日本側に提示したのでしょう。
彼らが国旗制作を大っぴらにできなかったのには、はっきりした理由があります。
李氏朝鮮は清を宗主国と仰いでいましたから、朝鮮の国旗を掲げるなどもってのほかだったわけです。
国旗を考案したことが明らかになれば、清朝政府から無理難題をふっかけられることは目に見えています。
しかし、国旗がない独立国というのも、欧米的常識では考えられないことです。
交渉の場で朝鮮側から国旗の原案が提示されたのでしょうが、独立を認めたくない日本は、その事実を闇に葬りさったのでしょう。
しかし、吉田清成が駐日英国公使への書簡で国旗の件に言及しているわけですから、国家機密という程のものでなかったことも確かです。
わざわざ三・一節に公開することだけを聞けば「また日本に対する嫌がらせか?」と思ってしまうのですが、この旗の背景にある歴史を考え合わせると、独立記念館が3月1日を選ぶのは仕方がないのかもしれません。

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『宋書』には、倭の王として讚・珍・済・興・武の五王が記載されている。これらの王は倭の五王として有名だが、高句麗の王も中国のさまざまな史書に中国名で記録されている。
中国の史書に実在する高句麗王として最初に登場するのは、宮だ。
■105年、宮が再び遼東に侵入し太守の耿夔がこれを撃破した。(後漢書高句麗伝)
■111年、宮が玄莵郡への帰属を願い出た。(後漢書高句麗伝)
■121年、宮が崩御し、遂成が即位した。(後漢書高句麗伝)
三国史記掲載の大祖大王(国祖王、於漱)が宮に当たると考えられるが、『三国史記高句麗本紀』では在位53〜146年となっており、在位年がかなり引き延ばされている。後漢書の記述からすると、宮の在位は100年頃〜121年と思われる。
『日本書紀』でも雄略天皇以前は在位年が延ばされているが、高句麗の王暦でおもしろいのは、在年の引き延ばしが開国年代を古くするための操作ではないことだ。
三国史記では、朱蒙による建国を紀元前37年のこととしている。しかし、建国の地である五女山城(中国遼寧省桓仁市)にある都城や王墓を発掘調査したところ、紀元前3世紀の遺跡群であることがわかった。三国史記には広開土王が朱蒙の12世孫と記されているが、広開土王碑には17世孫と刻されており、三国史記が高句麗の建国年を意図的に新しくしているのは明らかなのだ。
三国史記では開祖・朱蒙から大祖大王まで6代を数えるだけだが、実際には20人以上の王が立ったと想像される。
『魏書高句麗伝』には、初代が朱蒙王、第二代が閭達王、第三代が如栗王、第四代が莫来王で、その子孫が宮になると記されている。王名から判断すると、如栗王が類利とも称された第二代瑠璃明王(如栗も類利も瑠璃もルリと読める)、莫来王が無恤とも称された第三代大武神王と考えられる。閭達王は三国史記に該当する王がおらず、やはり三国史記では何人かの王がはぶかれているようだ。
宮以降の数代は、史書によって王暦が異なっている。
『後漢書高句麗伝』では、宮の子が遂成で、遂成の子が伯固となっている(宮ー遂成ー伯固)が、『三国志高句麗伝』では、宮の子が伯固となっている(宮ー伯固)。また、王莽の新時代に句麗王侯の騶王が在位していたことが両書に記されている。
『三国志高句麗伝』で伯固王が169〜177年頃在位していたことがわかるから、それを三国史記の在位年に当てはめると、第八代の新大王になる。別名が伯固であるところからも、伯固王が新大王である可能性が高い。そうすると、後漢書に見える遂成王は、146〜165年まで在位したとされる次大王(諱が遂成)になるだろう。
ただし、三国史記が中国の史書に合わせて記述した可能性もある。三国史記は、大祖大王、次大王、新大王を三兄弟だと記しているが、100年頃〜180年頃までの約80年間を実の三兄弟で継いだというのは俄かには信じがたい。後漢書には「132年に遂成が死に伯固が即位した」と書かれており、この記述が正しいとすると、末弟の伯固が50年近く在位したことになる。次大王、新大王という王名も、他の王名と比べるといかにもとってつけたような名前だ。
伯固の子の伊夷摸が故国川王(国壌王、男武)であることは、間違いなさそうだ。三国史記の分註に「名を伊夷摸ともいう」と記されている。中国風の王名を持たないのは、国が内乱状態で中国から正式な冊封を受けられなかったからだろう。
問題は位宮をどの王に比定するかだ。
244年に位宮王時代の高句麗が玄莵郡の母丘倹に壊滅させられたのは特筆に価する事件だったらしく、『魏書』『北史』『隋書』『梁書』に位宮の名が出てくる。
■238年、司馬仲達は大軍を率いて公孫淵を討伐し、位宮は司馬王に加勢するため千人の兵を援軍に向かわせた。(梁書高句麗伝)
■244年、魏の幽州刺史の毋丘倹が兵を率いて玄菟を出て位宮の討伐に向かった。位宮は歩兵や騎兵二万余りで迎え撃ち沸流で大戦となった。位宮が敗走すると、毋丘倹軍は峠まで追い丸都山にのぼった。都城で殺戮し、位宮は妻子を連れて遠くに逃げた。。(梁書高句麗伝)
■245年、毋丘倹が再び位宮を討つと、位宮は沃阻に逃げ込んだ。。(梁書高句麗伝)
三国史記は、第10代山上王の諱を位宮とする一方で、本文では第11代東川王時代に王都が母丘倹に陥落させられたと書いていて、記述に混乱が見られる。三国史記の在位年代を信用するなら、位宮は東川王になるが、そうすると山上王の存在が浮いてしまう。
山上王記を読むと、王族の内紛に関するエピソードが大部分を占めていることがわかる。山上王は実在しなかったのだろうか。もしくは敗戦による混乱でこの時代の記録がほとんど残っておらず、正確な記述ができなかったのだろうか。疑問は尽きない。
位宮の次に現れる王名は乙弗利だが、これは美川王(好壌王、乙弗、憂弗)に比定して問題ないだろう。『魏書』や『北史』によると、位宮と乙弗利の間に、名は不明ながら3人の王が即位したらしいので、この3王は中川王、烽上王、西川王だと思われる。ただし、例によって、三国史記が『魏書』と『北史』の記述に合わせて編纂された可能性も棄てきれない。
位宮の子として中国史書に登場する,蓮故国原王(国崗上王、斯由)で間違いないだろう。この王は、342年に慕容晃軍に大敗し、実母や妻ばかりでなく父王の遺骸まで持って行かれてしまった。
,亮,鵬μ召魍猟蠅任るのは、韻砲覆襦韻和20代長寿王(巨連)のことで、413年に即位して491年に崩御するまで数多くの記録が残されている。
ちなみに、『晋書』には413年に倭使が高句麗使とともに入貢したことが記録されているが、この高句麗使は長寿王の即位を報告するために派遣されたもので、このときの倭王は讃(応神天皇)とされている。
長寿王の前に即位していた安の比定は、かなり難しい。
■385年、高句麗が遼東と玄菟郡を攻めた。慕容垂は弟の農に高句麗を攻撃させ二郡を取り戻した。垂が死に子の宝が立つ。高句麗王の安を平州牧に任じ、遼東、帯方の二国王に封じた。安は初めには長史、司馬、参軍官を置き、後に遼東郡を占領した。(梁書高句麗伝)
安が平州牧となったのは、少なくとも385年から数年後だ。第19代広開土王の在位期間は、広開土王碑文によって391〜413年とわかっている(三国史記は392〜413年とする)から、安を広開土王とするのが妥当だろう。しかし、同じ『梁書高句麗伝』で、韻魄造梁垢箸靴討い襦F噂馥發縛韻亮,髻廂韻了劼留澄廚筏しているが、これは明らかな誤りだから、記述の信憑性に疑問がある。『北史』には 安、韻登場するが、互いの関係は記されていない。
梁書の「韻楼造梁后廚箸いΦ述を信じるなら、長寿王は故国壌王の孫だから、安は第18代故国壌王(伊連、於只支)になる。「安が後に遼東郡を占領した」という部分を信じるなら、安は広開土王に比定される。さまざまな史料を総合すると、広開土王の可能性が高いように思われる。
雲から蔵までは比定に問題ないだろう。ただ、系図や没年には多少の移動が見られる。
たとえば、延は第23代安原王だが、三国史記が安原王を安臧王(安)の弟としているのに対し、『梁書高句麗伝』は延を安の子としている。また、安臧王の没年に関して、三国史記の分註は「この年は梁の中大通3年(531)で魏の普泰元年(531)である。梁書には安臧王在位第8年の普通7年に崩御したとあるが誤りである」と記している。
●朱蒙=東明聖王
●閭達=???
●如栗=瑠璃明王
●莫来=大武神王
●騶=???
●宮=大祖大王
●遂成=次大王
●伯固=新大王
●伊夷摸=故国川王
●位宮=東川王
●乙弗利=美川王
● 畍旅餮恐
●安=広開土王
●院當梗王
●雲=文咨明王
●安=安臧王
●延=安原王
●成=陽原王
●湯=平原王
●元=嬰陽王
●建武=栄留王
●藏=寶臧王

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王氏高麗は918年に王建によって建国された王朝だが、高麗にはモンゴルの血を引く王が在位していた。
高麗は建国以来、常に北からの侵入に悩まされた。993年から1037年まで、契丹族の遼は手を休めることなく高麗を攻撃して服属を要求した。遼が国力を弱めると女真族が台頭し、1115年に金が建国されると、朝貢と金年号の使用を強要されたが、チンギス・ハン率いるモンゴルが遼東に攻め入ると、高麗はモンゴルと結んで金を討ち、1224年、独立を回復することができた。
しかし、1231年から今度はモンゴルによる侵入が始まった。30年近く交戦して頑張ったが、1259年、第23代高宗が降伏し、太子を人質として北京に送ることになった。
高宗が崩御すると、人質となっていた元宗が呼び戻されて即位した。第24代元宗は徹底的に親モンゴル政策をとり、太子にフビライの娘クツルガイミシを嫁がせた。
1274年8月、第25代忠烈王が即位すると、10月には文永の役が起こった。忠烈王は人質として大都(北京)のモンゴル王宮にいたとき、日本への侵攻をフビライに進言していた。有言実行ということなのだろうが、高麗の民は多大な戦費を背負わされた。そればかりか、1278年には辮髪胡服令が出され、頭髪を辮髪にしてモンゴル服を着用するよう強制された。
1298年、モンゴル人を母とする第26代忠宣王が即位した。この王は青年時代を大都で過ごし、フビライの曾孫を王妃としていた。イジリブカというモンゴル名も持っていた。
次の第27代忠粛王もモンゴル人を母としていたから、この時点で高麗の血は4分の1しかなかったことになる。忠宣王同様、大都で育ち、モンゴル皇族を王妃とし、アラトトリシというモンゴル名を持っていた。
第28代忠恵王は、高麗人を母としたが、王妃はモンゴル人で、ブタジリというモンゴル名があった。第29代忠穆王は、モンゴル人を母とし、王妃はモンゴル人で、パスマドアジというモンゴル名があった。このように、高麗では忠宣王以降、王朝が滅ぶまでモンゴル人の血を引く王が即位した。
しかし、モンゴルの血を引くからといって常に親モンゴル政策をとっていたわけではなく、たとえば第31代恭愍王は、即位するとすぐに辮髪胡服令を廃止し、親明政策に方向転換している。モンゴルの血を色濃く引いているとはいえ、祖国はやはり高麗だったということだろう。

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「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
来年までに本来の場所に近いロッテワールド裏手に
韓国の歴史上極めて大きな「屈辱の象徴」である三田渡碑(史跡第101号)が、現在の位置から北側に1キロほど離れたロッテワールド・マジックアイランドの入り口近くに移転されることになった。
文化財庁が9日に発表したところによると、「最近開かれた文化財委員会史跡分科会議で、“三田渡碑の移転は妥当だ”という意見で一致を見た」という。史跡分科委員長を務める梨花女子大の韓永愚(ハン・ヨンウ)碩座骸(寄付金によって研究活動を行えるよう大学の指定を受けた教授)は、「これまで移転できなかったのは本来の場所が確認できなかったからで、今回は相当細かく考証が行われた」と語った。
これにより、現在ソウル市松坡区石村洞289‐3番地の住宅の中にある三田渡碑は、石村湖水西湖の北東側にある緑地帯へ移される見込みだ(地図参照)。ここは韓国を代表する遊園地、ロッテワールドのビルのすぐ裏手に当たり、西湖の中心にあるロッテワールド・マジックアイランドとも隣接している地点だ。松坡区のイ・ヨンジュ文化体育課長は、「ソウル市公園審議委員会の審議を経た後、文化財庁の予算支援を受け、来年上半期までに移転を終える計画だ」と語った。松坡区は、石碑を収容する建物を新たに作ることも検討しており、予算は1億ウォンから2億ウォン(約1037万円‐2075万円)と見積もられている。なお、仁祖が降伏する光景を描写した石碑の横の銅板は、1983年に作られたもので文化財的な価値はない、という文化財委員会の判断に基づき撤去される。
高さ5.7メートルのこの石碑は、1639年(仁祖17年)の丙子胡乱(清の朝鮮侵攻)に破れた朝鮮が、清の太宗の要求により彼の功徳を称えて建てたものだ。長い間百済古墳路などに放置されていたため、本来の位置が分からなくなり、1983年に現在の場所に移された。昨年には何者かが赤いスプレーで落書きをするなど、絶えずいたずらの被害にあっている。また、史跡の周辺100メートル以内の建物が新築時に高さ制限を受けるなどといった規制による住民の不満も根強く、松坡区は2003年から文化財庁とソウル市に石碑の移転を要請していた。
松坡区から依頼を受けたソウル市立大ソウル学研究所は、文献や古い地番図、住民の証言などを基に綿密に調査した結果、今年2月に報告書で「石碑の本来の位置はマジックアイランド横の石村湖水西湖北東部周辺」と結論付けた。石村湖水の水を汲み上げない限りその場所に建てるのは不可能なため、最も近い地点を選択したというわけだ。ただし、移転に対する憂慮の声もある。韓国文化遺産政策研究所のファン・ピョンウ所長は、「1983年に現在の場所へ石碑を建てた、という事実も既に歴史の一部なのに、開発のため本来の位置でもない場所へ史跡を移すのは問題がある」と語った。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者/朝鮮日報日本語版/2008/06/15
三田渡碑の正式名称は大清皇帝功徳碑という。碑文の内容から恥辱碑とも呼ばれる。
朝鮮が清に降伏したことを記念してソウルに建てられた碑で、中国語、満州語、モンゴル語で彫られており、言語によって内容が多少異なる。
1626年、後金の皇帝として即位した太宗ホンタイジは、翌1627年に朝鮮へ出兵して首都漢城を陥れ(韓国では丁卯胡乱という)、1636年にはモンゴル大王の玉璽を手に入れ、瀋陽で清を建国した。朝鮮政府はホンタイジの皇帝即位を認めず親明政策をとったため、1637年、清は10万の兵で朝鮮へ侵入し、仁祖王は降伏することとなった(韓国では丙子胡乱という)。
このとき首都の三田で降伏の儀式が執り行われ、その記念として1639年、大清皇帝功徳碑が建立された。
1895年、日本が日清戦争に勝利したため、朝鮮は清の冊封から205年ぶりに解放され、三田渡碑は倒されて埋められた。その後、掘り返されたり埋め戻されたりしたあと、1957年に韓国の史跡第101号に指定され今日に至っている。
かなり屈辱的なことが書かれているというので中国語の原文(漢文)を読んでみたが、朝鮮王が自分のことを小邦君臣とへりくだって呼んだりしてはいるが、戦勝碑としてはいたって普通で、占領国を侮辱しているような表現もない。
元寇のとき、皇帝フビライが鎌倉幕府に出した文書を、東洋史学者が中国皇帝の詔にしては丁寧な表現だと考えるのに対し、日本史研究者が無礼で傲慢な文章だと主張する状況に似ているように思う。
漢文は簡潔に書かれているから、恣意的に翻訳することができる。韓国語や日本語になっている要約を読むと、屈辱感が増すよう、かなりオーバーに訳しているようだ。清は満州族による征服王朝だから、三田渡碑も満州語を直訳し、それを批評すべきだ。
満州語の訳文がアップされることを祈るばかりです。

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