韓国について実際に見て経験したことを紹介しています。妻が韓国人ならではのディープなネタがいっぱいです。


文咨明王(もしくは明治好王)は、諱を羅雲といい、長寿王の孫である。
父は古鄒大加の助多だが、助多が早死にしたので、長寿王は羅雲を宮中で養育し、大孫とした。
長寿王が在位79年で薨去したので王位を継いだ。

元年(492年)春3月、北魏の孝文帝が遣使して、王を使持節の都督遼海諸軍事の征東将軍の領護東夷中郎将の遼東郡開国公の高句麗王に封じ、衣冠、服物、車旗の飾りを下賜した。
また、高句麗王に詔して、世継ぎを人質として入朝させるよう命じた。
王は皇太子が病気だと偽り、入朝を辞退した。
朝貢使として派遣された従叔(父の従兄弟)の升干は、北魏の使者の指示通りに宮殿を訪問した。

元年(492年)夏6月、北魏に朝貢した。
元年(492年)秋8月、北魏に朝貢した。
元年(492年)冬10月、北魏に朝貢した。

著者注:493年、北魏が洛陽に遷都する。
著者注:494年、夫餘が勿吉に滅ぼされる。

3年(494年)春正月、北魏に朝貢した。

3年(494年)春2月、夫餘王とその妻子が、国ごと投降して来た。
3年(494年)秋7月、高句麗軍は新羅軍と薩水の河原(忠清北道塊山郡)で戦った。
新羅は敗れ、犬牙城にたて籠もった。
高句麗兵が城を囲んだが、百済が3000の兵を派遣して新羅を助けたので、高句麗兵は引き上げた。
斉の皇帝が、王を使持節の散騎常侍の都督営平二州諸軍事の征東大将軍にして楽浪公に封じた。
北魏に朝貢した。

4年(495年)春2月、北魏に朝貢した。
4年(495年)夏5月、北魏に朝貢した。

4年(495年)秋7月、南方へ行幸して田猟し、海を望む場所に至って帰ってきた。

4年(495年)8月、派兵して百済の雉壌城を包囲した。
百済は新羅に援軍を求めた。
新羅王が将軍の徳智に出兵して助けるよう命じたので、高句麗軍は引き上げた。

5年(496年)、斉の明帝が、王を車騎将軍に封じた。
王は斉に朝貢した。
5年(496年)秋7月、派兵して新羅の牛山城を攻撃した。
新羅軍が泥河に出撃したため、高句麗軍は敗北した。

6年(497年)秋8月、派兵して新羅の牛山城を攻めて陥落させた。

7年(498年)春正月、王子の興安を皇太子とした。
7年(498年)秋7月、金剛寺を創建した。
7年(498年)秋8月、北魏に朝貢した。

8年(499年)、百済の民が飢え、2000人が投降して来た。

9年(500年)秋8月、北魏に朝貢した。

10年(501年)春正月、北魏に朝貢した。
10年(501年)冬12月、北魏に朝貢した。

著者注:502年、南朝の斉が滅び、梁が興る。
著者注:502年、倭国が梁に朝貢し、梁の武帝が倭国王を鎮東大将軍とする。

11年(502年)夏4月、梁(南朝の一国)の高祖が、王を車騎大将軍に封じた。

11年(502年)冬11月、百済が国境を犯した。

11年(502年)冬12月、北魏に朝貢した。

12年(503年)冬11月、百済は、達卒の優永に兵5000を率いさせ、水谷城(黄海道新渓郡)を攻撃した。

13年(504年)夏4月、北魏に朝貢した。
北魏の宣武帝は、東堂で高句麗使者の芮悉弗を引見した。
芮悉弗が進み出て言った。
「我が小国(高句麗)は天朝(北魏)に先祖代々忠誠を尽くし、特産物の献上を怠ったことがありませぬ。
ただ、黄金は夫餘で、メノウは渉羅(済州島)で産すもの。
夫餘は勿吉(松花江一帯にいたツングース系民族)に駆逐され、渉羅は百済に併合されておりまする。
この2品を献上できなかったのは、両賊(勿吉と百済)のためでございます」
宣武帝は言った。
「高句麗は代々上将の任を担い、もっぱら国外を制圧し、数々の蛮族を征伐してきた。
瓶(高句麗)に酒がないのは、酒樽(北魏)の恥である。
これを誰が咎めよう。
むかし高句麗が貢納を怠ったことがあったが、その原因は地方官にあった。
そちは朕の思いを主(高句麗王)に伝えよ。
威圧と懐柔を適宜用い、群がる賊を斬り捨て、東夷の地に安寧をもたらせ。
二邑(勿吉と百済)を旧所(高句麗)に戻し、献上品を失うことなく常に貢納せよ」

15年(506年)秋8月、王は龍山(地名)の南で田猟し、5日して戻った。

15年(506年)秋9月、北魏に朝貢した。

15年(506年)冬11月、将軍を派遣して百済を征伐した。

16年(507年)冬10月、北魏に朝貢した。
王は将軍の高老を派遣し、靺鞨と協議して、百済の漢城(京畿道広州市)を攻撃しようとした。
横岳の麓に陣を敷いているとき、百済が逆襲してきたので、兵を引き上げた。

17年(508年)、梁の高祖が詔して言った。
「高句麗王楽浪郡公某(羅雲)は、誠に忠誠心が篤く、朝貢を絶やしたこともない。
ここに爵位を授けるから、朝廷の偉功を広めよ。
撫軍大将軍にして開府儀同三司に任じる」

17年(508年)夏5月、北魏に朝貢した。
17年(508年)冬12月、北魏に朝貢した。

18年(509年)夏5月、北魏に朝貢した。

19年(510年)夏閏6月、北魏に朝貢した。
19年(510年)冬11月、北魏に朝貢した。

21年(512年)春3月、梁に朝貢した。
21年(512年)夏5月、北魏に朝貢した。

21年(512年)秋9月、百済に侵入し、加弗城と円山城を陥落させ、男女1000人あまりを捕虜にした

22年(513年)春正月、北魏に朝貢した。
22年(513年)夏5月、北魏に朝貢した。
22年(513年)冬12月、北魏に朝貢した。

23年(514年)冬11月、北魏に朝貢した。

24年(515年)冬10月、北魏に朝貢した。

25年(516年)夏4月、梁に朝貢した。

26年(517年)夏4月、北魏に朝貢した。

27年(518年)春2月、北魏に朝貢した。
27年(518年)夏4月、北魏に朝貢した。
27年(518年)夏5月、北魏に朝貢した。

28年(519年)、王が薨去したので、諡号を文咨明王とした。
北魏の霊太后が、文咨明王のために東堂で葬儀を行った。
高句麗に遣使し、文咨明王に車騎大将軍の称号を贈った。
このとき、北魏の孝明帝は10歳で、霊太后が摂政をつとめていた。

 にほんブログ村 海外生活ブログ 韓国情報へ 
↑おもしろかったらポチッとお願いします<(_"_)>↑







長寿王は諱を巨連(もしくは院砲箸いぁ広開土王の子である。
豪傑で高い志を持っていた。
広開土王の18年(409年)に皇太子となり、22年(413年)に王が薨去して即位した。

著者注:413年、倭国が東晋に朝貢する。

元年(413年)、長史の高翼を東晋に派遣して上奏文を奉り、紅白斑の馬を献上した。
東晋の安帝は、王を高句麗王楽浪郡公に封じた。

著者注:420年、江南で東晋が滅び、宋が興る
著者注:421年、倭国が宋に朝貢する。

12年(424年)春2月、新羅が使者を派遣し修好を求めてきた。
王は使者を丁重に慰労した。

12年(424年)秋9月、大豊作だったので、王は宮殿で群臣を集めて宴会を開いた。

13年(425年)、北魏(398年に建国。首都は山西省大同市)に朝貢した。

15年(427年)、王は平壌に遷都した。

著者注:430年、倭国が宋に朝貢する。

23年(435年)夏6月、北魏に朝貢し、北魏皇帝の諱表を所望(高句麗が北魏の臣下になることを意味する)した。
世祖太武帝はその忠誠心を喜び、皇帝の系譜や諱を書き写して与えた。
太武帝は、員外散騎侍郎の李敖を派遣して、王を都督遼海諸軍事の征東将軍の領護東夷中郎将の遼東郡開国公にして高句麗王に任命した。
23年(435年)秋、王は北魏に遣使し、感謝の意を表した。
北魏がしばしば後燕を征伐し、後燕は存続があやうくなった。
後燕王の馮弘が言った。
「もし急を要するような事になったら、東へ逃げて高句麗に頼って再起をはかれ」
尚書の陽伊が密使として高句麗に派遣された。
陽伊は高句麗が亡命者を受け入れてくれることを願った。

24年(436年)、後燕王は北魏に遣使して入朝し、小姓を送りたいと願った。
北魏王はこれを許さなかった。
北魏は挙兵して後燕を攻撃しようとし、高句麗に遣使して参加を促した。

24年(436年)夏4月、北魏は後燕の白狼城を攻撃した。
王は、将軍の葛慮と孟光に数万の兵を与え、陽伊とともに和龍(中国遼寧省朝陽市)で後燕王を迎えさせた。
和龍城に入った葛慮と孟光は、兵士たちに燕のきれいな服に着替えるよう命じ、武器庫にあった精巧な武器を分け与えた。
城内で大々的に略奪を行った。

24年(436年)夏5月、後燕王は龍城の民を率いて高句麗に移った。
このとき城を燃やしたが、火は10日も消えなかった。
北魏軍の来襲に備え、婦人たちに甲冑を着させて内側に配し、陽伊たちは精鋭軍を率いて外側を行軍した。
葛慮と孟光は騎馬隊を率い、しんがりを勤めながら進んだ。
高句麗へ進む行列は、前後80里あまりになった。

これを聞いた北魏王は、散騎常侍の封撥を派遣して、高句麗王に後燕王を北魏へ送るよう命じた。
高句麗王は北魏に使者を派遣して上表文を奉り、後燕王の馮弘とともに北魏に仕えたいと願った。
北魏王は、高句麗が勅命に従わなかったとして、高句麗攻撃の会議を開いた。
北魏王は、隴右(中国甘粛省蘭州市)にいる騎馬軍を動員しようとしたが、劉呂箜敲寝Δ緑たちが反対して諫めたので、攻撃は中止された。

25年(437年)春2月、北魏に朝貢した。

著者注:438年、倭国が宋に朝貢する。

26年(438年)春3月、以前(436年)後燕王の馮弘が遼東に着いたとき、王は遣使して労をねぎらって言った。
「龍城王馮君(王を君に格下げして呼んでいる)は、慣れない野営で兵馬も疲れていることでしょう」
馮弘は惨めな境遇の自分を恥じながらも、使者を怒鳴りつけて罵った。
王は馮弘を平郭(地名)に住まわせ、後に北豊(地名)に移した。
馮弘は高句麗を見下し、北豊での政治や賞罰は後燕国時代と同じであった。
王は、馮弘から身のまわりの世話をする小姓を奪い、皇太子の王仁を人質とした。
馮弘はこれを恨み、宋(420年建国の南朝国家)に遣使して上表文を奉り、迎えに来てくれるよう頼んだ。
宋の太祖は王白駒たちを派遣して、馮弘を迎えることとし、高句麗に支度品といっしょに馮弘を送るよう命じた。
高句麗王は馮弘を南に行かせることを望まず、将軍の孫漱や高仇等を派遣し、北豊で馮弘と子孫十数人を殺させた。
王白駒たちは7000あまりの兵で孫漱と高仇を急襲し、高仇を殺し、孫漱を生け捕りにして帰国した。

高句麗王は王白駒たちを殺そうと思い、宋に遣使して王白駒たちを送るよう求めた。
宋の太祖は、高句麗が宋の命令に従わないのを不満に思い、王白駒たちを形式的に獄につないだあとで釈放した。

著者注:439年、北魏が黄河流域以北を統一し、中国は南北朝時代に入る。

27年(439年)冬11月、北魏に朝貢した。
27年(439年)冬12月、北魏に朝貢した。

著者注:443年、倭国が宋に朝貢する。

38年(450年)、新羅人が辺境の将を襲って殺した。
王は怒って、兵を派遣して討たせようとした。
新羅王が使者を送り謝罪したので、派兵を中止した。

42年(454年)秋7月、高句麗軍が新羅の北辺に侵入した。

43年(456年)、宋に朝貢した。

著者注:462年、倭国が宋に朝貢する。


50年(462年)春3月、北魏に朝貢した。

51年(463年)、宋の世祖孝武皇帝が高句麗王を、車騎大将軍にして開府儀同三津司に封じた。

53年(465年)春2月、北魏に朝貢した。

54年(466年)春3月、北魏に朝貢した。
北魏の文明太后が、顕祖献文帝の後宮に人が足りないので公主を推薦するよう言ってきた。
王は上奏文を奉って報告した。
「娘はすでに嫁いでいないので、王弟の娘でもよろしいでしょうか」
ある家臣が以下のようなことを王に勧めた。
文明太后はこれを許し、安楽王の真や尚書の李敷たちを派遣し、国境で結納の品を渡した。
「昔、魏は燕と婚姻を結びましたが、しばらくして燕を滅ぼしました。
それは魏の使者が燕の実情を熟知していたためでございます。
燕の失策を鑑みるに、何か言い訳を考えて辞退されるのがよろしいかと思いまする」
王は、送り出す予定の娘が死んでしまったと伝えさせた。
北魏は高句麗が嘘をついているのではないかと疑った。
派遣された仮散騎常侍の程駿は、厳しく問い正した。
そして『その娘が死んでしまっているなら、ほかの王族の娘でもかまわない』ということになった。
王は言った。
「もし天子様が前の過ちをお許しくださるのでしたら、勅令を謹んで拝受いたします」
その後、顕祖が崩御したので、婚姻は中止された。

55年(467年)春2月、北魏に朝貢した。

56年(468年)春2月、王は靺鞨の兵10000を率い、新羅の悉直州城(江原道三陟)を陥落させた。

56年(468年)夏4月、北魏に朝貢した。

57年(469年)春2月、北魏に朝貢した。

57年(469年)秋8月、百済兵が南辺に侵入した。

58年(470年)春2月、北魏に朝貢した。

59年(471年)秋9月、民の奴各たちが北魏に投降した。
北魏王は家と畑を下賜した。
北魏の高文帝の延興元年(471年)のことである。

60年(472年)春2月、北魏に朝貢した。
60年(472年)秋7月、北魏に朝貢した。
このときから献上する朝貢品が2倍になり、下賜品がいくばくか増えた。

61年(473年)春2月、北魏に朝貢した。
61年(473年)秋8月、北魏に朝貢した。

62年(474年)春2月、北魏に朝貢した。
62年(474年)秋7月、北魏に朝貢した。
宋に朝貢した。

63年(475年)春2月、北魏に朝貢した。
63年(475年)秋8月、北魏に朝貢した。

63年(475年)秋9月、王は兵30000を率いて百済に侵入し、王都の漢城(京畿道)を陥落させ、王の扶餘慶を殺し、男女8000を捕虜にして連れ帰った。

64年(476年)春2月、北魏に朝貢した。
64年(476年)秋7月、北魏に朝貢した。
64年(476年)秋9月、北魏に朝貢した。

65年(477年)春2月、北魏に朝貢した。
65年(477年)秋9月、北魏に朝貢した。

著者注:478年、倭国が宋に朝貢する。

66年(478年)、宋に朝貢した。
百済の燕信が投降して来た。

著者注:479年、南朝の宋が滅び、斉が興る。
著者注:479年、倭国が斉に朝貢する。

67年(479年)春3月、北魏に朝貢した。
67年(479年)秋9月、北魏に朝貢した。

68年(480年)夏4月、斉(479年建国の南朝国家)太祖の蕭道成が、高句麗王を驃騎大将軍に封じた。
王は餘奴たちを斉に派遣して朝貢させようとしたが、光州(中国山東省掖県)の人が海上で餘奴たちを捕まえて、魏の王宮に送った。
北魏の高文帝は、詔をして高句麗王を責めて言った。
「蕭道成は自ら君主を殺害し、長江の南で王位に就いている。
朕は、宋を再興して劉氏に王統を継がせるつもりだ。
卿(高句麗王)は越境外交を行い、遠方の逆賊(斉のこと)と通じようとしている。
藩臣(高句麗王)が守るべき義といえるのか。
一度の過ちで旧交を断つつもりはない。
卿の使者は藩(高句麗)に帰す。
心の広さを感じて反省し、朕の指示に従え。
国内を安寧にし、状況を逐次報告せよ」

69年(481年)、斉に朝貢した。

72年(484年)冬10月、北魏に朝貢した。
このとき、魏の人は高句麗が強国であると言って、朝貢国の使者に提供する館を配するとき、斉を第一とし、高句麗をその次とした。

73年(485年)夏5月、北魏に朝貢した。
73年(485年)冬10月、北魏に朝貢した。

74年(486年)夏4月、北魏に朝貢した。

75年(487年)夏5月、北魏に朝貢した。

76年(488年)春2月、北魏に朝貢した。
76年(488年)夏4月、北魏に朝貢した。
76年(488年)秋閏8月、北魏に朝貢した。

77年(489年)春2月、北魏に朝貢した。
77年(489年)夏6月、北魏に朝貢した。

77年(489年)秋9月、出兵して新羅の北辺を侵し、狐山城を陥落させた。

77年(489年)冬10月、北魏に朝貢した。

78年(490年)秋7月、北魏に朝貢した。
78年(490年)秋9月、北魏に朝貢した。

79年(491年)夏5月、北魏に朝貢した。
79年(491年)秋9月、北魏に朝貢した。

79年(491年)冬12月、王が薨去した。
98歳だったので、諡号を長寿王とした。
北魏の孝文帝はこれを聞き、白装束を身にまとわせ、東郊で哀悼の儀式を挙行させた。
また、謁者僕射の李安上を高句麗に派遣し、車騎大将軍の大傅の遼東郡開国公にして高句麗王という称号を贈り、諡号を康とした。

 にほんブログ村 海外生活ブログ 韓国情報へ 
↑おもしろかったらポチッとお願いします<(_"_)>↑







広開土王(もしくは好太王)は、諱を談徳といい、故国壌王の子である。
生まれながら勇敢で偉人の風格があり、崇高な志を持っていた。
故国壌王の3年(386年)に皇太子となり、9年(386年)に王が薨去したので即位した。

元年(392年)秋7月、南の百済を征伐して、10城を落とした。

元年(392年)秋9月、北の契丹を征伐した。
このとき、男女500を捕虜としたが、捕虜の呼びかけで10000人が高句麗に来た。

元年(392年)冬10月、百済の関彌城を陥落させた。
関彌城は四方を海に囲まれていたが、王は7方向から攻撃し、20日で落城させた。

2年(393年)秋8月、百済が我が国の南境を侵したので、王は将軍に命じてこれを防いだ。
王は都の平壌に九つの寺院を建立した。

3年(394年)秋7月、百済が侵攻してきたので、王は精騎5000を率いて迎え撃って破った。
残りの兵もその日の夜に逃げた。

3年(394年)秋8月、国の南部に7つの城を築いて、百済の侵入に備えた。

4年(395年)秋8月、王は、百済とバイ(サンズイに貝)水(北朝鮮の礼成江)の畔で戦って大勝利を収め、8000あまりの捕虜を得た。

9年(400年)春正月、後燕に朝貢した。

9年(400年)春2月、後燕王の慕容盛は、高句麗王の礼がおろそかだとして、30000の兵を率いて攻撃した。
驃騎大将軍の慕容熙を先鋒として、新城と南蘇の700里あまりの地を奪い、5000戸の住民を連行した。

11年(402年)、王は兵を派遣して後燕の宿軍を攻撃した。
後燕の平州刺史の慕容帰は城を棄てて逃亡した。

著者注:404年、倭軍が高句麗軍と戦う。

13年(404年)冬11月、出兵して後燕に侵入した。

14年(405年)春正月、後燕王の慕容熙が来寇して遼東城を攻めた。
まさに落城しようとしたとき、慕容熙は将兵たちに先に入城しないよう命じた。
その理由は、城が平定された後で王と皇后が輿に乗って入城するためであった。
そんなことをしている間に、遼東城が軍備を厳重に整えたため、後燕軍は城を落とすことができずに引き上げた。

15年(406年)冬12月、後燕王の慕容熙が契丹を襲った。
陘北(中国山西省)に至ったところで、契丹軍の多さに恐れをなし、軍事物資を棄てて帰還した。
その後、軽装備になった後燕軍が高句麗を襲撃した。
しかし、3000里あまり行軍していたため、兵士も軍馬も疲弊していて、凍死する者が道に連なる状態だった。
我が国の木底城(中国遼寧省撫順市)を攻撃したが、勝てずに帰って行った。

16年(407年)春2月、宮殿を修造した。

17年(408年)春3月、王は北燕に遣使し、北燕王の慕容雲が同族であることを述べた。
北燕王の慕容雲は、侍御史の李抜を返礼使として派遣した。
慕容雲の祖父の高和は、高句麗の分家にあたり、自ら高陽氏の末裔と称し、高を氏としていた。
北燕王の慕容宝は高雲を皇太子とした。
高雲は武芸に優れ、当時皇太子だった慕容宝に仕えた。
この後、慕容宝は高雲を養子にして慕容の姓を与えた。

18年(409年)夏4月、王子の巨連を皇太子とした。

18年(409年)秋7月、国の東部に禿山城など6城を築き、平壌の住民を移住させた。

18年(409年)秋8月、王は南方に行幸した。

著者注:413年、倭が東晋に朝貢する。

22年(413年)冬10月、王が薨去した。
諡号を広開土王とした。

 にほんブログ村 海外生活ブログ 韓国情報へ 
↑おもしろかったらポチッとお願いします<(_"_)>↑







故国壌王は、諱を伊連(もしくは於只支)といい、小獣林王の弟である。
小獣林王が在位14年で薨去したが、跡継ぎがおらず伊連が即位した。

2年(385年)夏6月、王は40000の兵で遼東郡を攻撃した。
後燕王の慕容垂は、帯方王の慕容佐に命じて王都の龍城を守らせていた。
慕容佐は高句麗が遼東郡を攻撃したと聞き、司馬郝景を派遣して救援させたが、高句麗軍はこれを撃破した。
ついに高句麗軍は遼東郡と玄莵郡を陥落させ、男女10000を捕虜にして帰還した。
2年(385年)冬11月、後燕王の慕容農(慕容垂の第3子)が兵を率いて侵入し、遼東郡と玄莵郡を奪い返した。
これまでに、幽州(中国河北省)と冀州(中国山西省)の民がたくさん濃高句麗に流れてきていた。
慕容農は范陽(中国河北省)の龐淵を遼東太守に任命し、流民を慰撫して帰らせた。

3年(386年)春正月、王子の談徳を皇太子とした。

3年(386年)秋8月、王は兵を徴発して、南の百済を征伐した。

6年(389年)秋9月、百済が侵入し、南辺の部落を略奪して帰った。

7年(340年)秋9月、百済王は、達卒(百済の官位名)の真嘉謨に都押城(黄海道)を攻略させ、200人を捕虜にして連れ帰った。

9年(342年)春、王は新羅に使者を出して修好を求めた。
新羅王は甥の実聖を人質として派遣してきた。

9年(342年)春3月、教書を発布して、仏教を崇拝して幸福を求めることにした。
各地の役所に命じて、地方神を祭る廟を建立させ、先祖を祭る宗廟を修造させた。

9年(342年)夏5月、王が薨去した。
故国壌に埋葬し、諡号を故国壌王とした。

 にほんブログ村 海外生活ブログ 韓国情報へ 
↑おもしろかったらポチッとお願いします<(_"_)>↑







小獣林王(もしくは小解朱婁王)は、諱を丘夫といい、故国原王の子である。
背丈が高く、雄大な計略を持っていた。
故国原王の25年(355年)に皇太子となり、41年(371年)に王が薨去したので即位した。

2年(372年)夏6月、前秦皇帝の符堅が使者と仏僧の順道を派遣して、仏像や経典を贈ってきた。
王は返答使を派遣し、返礼として宝物を贈った。
大学を創設して、子弟を教育した。

3年(373年)、初めて律令を発布した。

4年(374年)、仏僧の阿道が来訪した。

5年(375年)春2月、初めての寺院として肖門寺を建立し、道順を置いた。
また、伊弗蘭寺を建立し、阿道を置いた。
これが海東(渤海の東)での仏教の始まりである。

5年(375年)秋7月、百済の水谷城(黄海道新渓)を攻撃した。

6年(376年)冬11月、王は百済の北境を侵略した。

7年(377年)冬10月、百済が30000の兵を率いて平壌城を攻撃した。

7年(377年)冬11月、王は百済を討伐した。
王は南の百済を征伐した。
前秦の符堅に使者を出して朝貢した。

8年(378年)秋9月、契丹(モンゴル系の遊牧民族)が、我が国の北境に侵入した。

14年(384年)冬11月、王が薨去した。
小獣林に埋葬し、諡号を小獣林王とした。

 にほんブログ村 海外生活ブログ 韓国情報へ 
↑おもしろかったらポチッとお願いします<(_"_)>↑